阿部 あべ 

阿部千秋家

 
明治元年支配帳に阿部千秋家がある。『参考諸家系図』によれば奥医師阿部友伯の子蔵治を祖と伝える。蔵治は天保九年常府として召出され、七両二人扶持、高にして四十七石を食み小納戸を勤めた。同十年五十石を加増せられ九十七石となる。同十二年江戸から盛岡に移住、同十四年に隠居して弘化三年に死去した。その跡を天保十四年に梅内藤六祐訓の二男千秋盈憶が相続。御新番組組頭、各地代官、御蔵奉行、御勘定吟味役等を歴任した。盈憶は実父祐訓ならびに斎藤三平から国学、和歌、数学、篆刻を、また俳諧を父の弟子才馬に学び能くしたという。明治十四年死去した。子孫は大次郎、長吉、芳文と相続、その跡を継いだ当主の芳昭氏は盛岡市に在住する。歴代の墓地は盛岡市北山の法泉寺にある。
 
諸士リスト(あ行)

盛岡藩士の家系メインリスト


一覧にもどる