市原 いちはら

市原誠之丞家

 盛岡藩の家臣に市原宗仲政武を祖とし、現米二百石(内四十二石扶持方)を宛行われた市原家がある。政武は本国河内の人。江戸に出て塙宗悦の門人となり医を学び、当時名医として名が知られた人という。寛文中南部重信に医師として召抱られ現米四百石を宛行われた。同十二年地方四百石に色替されて采地を稗貫郡矢沢村(花巻市)の内、三戸郡豊間内村(五戸町)の内に食邑した。この時、嫡子は武家として勤仕する約束がなされ天和三年死去した。その跡を嫡子只右衛門光清が約束により武家として相続、宝永三年死去した。光清の家督をその嫡子唯右衛門政儀が相続した。幼少により現米二百石を与えられ、残り二百石は成人後の奉公次第とされた。黒沢尻物留番所役人となり延享四年隠居、寛延三年暮に死去した。翌四年に嫡子治八郎政杜が相続、黒沢尻物留番所役人を勤め寛延三年死去した。その跡を松岡与五平英長の三男四郎左衛門忠顕が嗣子となり相続、黒沢尻物留番所役人、金森兵部少輔頼錦の構番、その後取次役、奥使を勤め天明三年に隠居、寛政三年死去した。その跡を本堂仁右衛門の二男庄左衛門が嗣子となり相続、寛政十一年死去した。その跡を嫡子郡右衛門忠寄が相続した。記録方を勤めて天保四年に隠居。その後同十一年に再当住となり弘化三年に死去した。忠寄は篤焉と号し、編纂した書物に「篤焉家訓」二十七冊、中島高寛の国統年譜を増補した「増補国統年譜」四冊などがある。その跡を天保四年に嫡子武志政寄が相続、同十年に死去した。再相続後の家督は政寄の二男誠之進故忠が弘化三年に相続した。故忠は中丸番子組頭、各地代官を勤め、明治十年の士族明細帳によれば当時下厨川村(盛岡市)百五十七番屋敷に居住していた。歴代の墓地は盛岡市北山の法泉寺にある。


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