梅内 うめない

梅内忠右衛門家 200318

 明治元年の支配帳に梅内忠右衛門家がある。『参考諸家系図』によれば梅内長左衛門祐利の四男梅内長四郎祐章を祖と伝えている。系胤譜考には「祐章は元禄中三戸より徒に召出されて六駄二人扶持(高二十四石)を食禄、のち徒目付を勤めた。享保七年江戸にて組付御免、士班に列し同年死去した。その跡を政六(のち忠右衛門)祐員が相続した」。右は祐員本人が書上たものの要旨である。人物志はこれを「三戸給人梅内伊右衛門の孫、長四郎祐堅の子、徒士に召出され、徒目付より給人となった」とするのは出典不明ながら誤伝であろう。祐員はその後勘定所御物書・元〆所締役・取次を経て寛保二年勘定頭となった。勘定頭勤中には山林の増殖を図り、各地山奉行を督励した。特に田名部の桧山を七ヶ年の留め山として繁殖を図り、採伐を禁じ繁茂を見た。しかし、郷中領民の多くが困窮零落の瀬戸にあったことから桧材木伐方の法を定め、藩上層部を説得して運上金なしの桧札を与えるなど救恤を施した。それらの功により延享元年に四駄三人扶持を加増され、更に宝暦二年九人加扶持、同十四年金方十両を加増され、高百五十四石となった。その後元〆となり明和七年死去した。この間、宝暦三年日光本坊の修復普請手伝の時には元〆奥使兼帯を勤めた。その跡を嫡子忠次郎祐英が相続した。祐英は明和六年部屋住で側役となり、翌七年に家督、安永二年死去した。その跡を二歳の政六(のち忠左衛門、忠次郎、藤六)が相続、幼少であるため成人まで叔父の忠次郎が看抱として座敷奉行、次役などを勤め、直勤後は側役、納戸、留守居などを歴任した。その跡を文政中に嫡子忠助祐之(のち藤六)が相続。納戸、大槌通代官、留守居などを歴任した。その跡を嫡子藤六祐訓が相続。手許雑書調役、物書奉行、目付、側目付、諸番人小人頭、納戸、小姓、小姓頭取、用人などを歴任、弘化五年に金方二十石を加増され、高百九十二石となった。文久元年に隠居。明治二年死去した。黒川隆盛の門に入り、和歌を好み解香と号し、鉄筆家を以て知られる。蕗園漫筆、聞老遺事などの著書がある。その跡を嫡子忠左衛門祐継(のち忠次郎、誠記)が相続、鉄炮方、加番組番子組頭、中丸番子組頭などを勤めた。明治六年その跡を嫡子弓司が相続。同十一年の士族明細帳によれば、河原小路八番屋敷に住居と見える。その跡を清身━四郎と相続、当主道夫氏は神奈川県に在住する。歴代の墓地は盛岡市大慈寺町の長松院にある。

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