大里 おおさと

大里廉蔵家 200621

 明治元年の支配帳に大里廉蔵家がある。『参考諸家系図』は花輪伯耆守支族大里修理親基を祖と伝える。大里氏は鹿角郡大里村の在名により氏としたが、武蔵七党・丹党安保氏の系を引く家と知られる。安保実光の嫡子実員に連なる庶流・安保行員の子基員の暦応二年譲状案に「一所、陸奥国かつののこおり東根内、大里太郎四郎在家云々」があり、鎌倉期に郡内地頭職に補された安保氏末孫と伝える。花輪、円子、柴内氏などは同族である。鹿角市小豆沢大日堂に現存する文明十八年棟札に大里上総が修復(南部家の記録では十五代大膳大夫政盛修復の棟札と伝えるが、大里上総を消して上書き改竄したことが鮮明である)と伝える。その後奥南落穂集によれば、修理親基は天正十九年九戸左近将監政実の一揆に一味して頭人となり、落城後三迫にて誅せられた。参考諸家系図には浅野弾正少弼長政の陣に降り、陸奥伊達郡具田駅で切腹、藤田村長水寺に碑があるという。親基の子備前親易(「参考諸家系図」は親房に作る)は幼少であったため難を逃れて山林に隠れ、次いで叔母の家柴内家に寄食した。文禄二年大湯五兵衛を以ての南部家より仕官の誘いに拒絶、出羽比内(秋田県大館市)に走り、扇田左門に寄居。慶長二年鹿角に帰った。奥南落穂集は更に、その子は助右衛門親棟と伝え、浪人のまま鹿角で死去と見える。

 親易の二男にして親棟の弟十左衛門(のち主膳)武上は元和六年南部彦九郎政直に仕え、政直死去し浪人となったが、その子庄左衛門広共は寛文五年召出され中小姓となった。

親棟の長男角右衛門親孝は八戸に移り同所で死去。寛永十一年にその長男与三左衛門親邑が将軍上洛に際し、供奉した重直に従った八戸弥六郎に扈従。これより同家の家士となり地方五十石を食した。晩年隠居して宗鑑と号した。

 親邑の二弟孫十郎親治があり、その孫与三右衛門親誉の時、宝永三年徒に召出され、のち士班に列した。

 ほかに持筒同心で鉄炮筒薬用を勤め、享保七年に刀差に召出された大里万三郎偕晴を祖とする家がある。子孫に至り、勘定方を勤めた貞之助が嘉永五年士班に列した。その子治六偕行が文久三年に相続、偕行は明治八年改正の官員録によれば開拓使に出仕していた。実子なく家名は絶え、現在旧盛岡藩士桑田の権利継承者は東京都に在住している。

親棟の系を継いだ親孝の子・親邑の跡を長男与三左衛門親保が継いで八戸氏に仕え、二男祐元親真は医を学び、八戸氏に別に医師として仕えた。その長男元伯親偉は部屋住で父に先立ち死去。二男与五郎(のち勇左衛門)親門は享保八年召出され御用の間物書となった。同十三年初めて二人扶持を食み、同十四年昇進して祐筆となった。同十九年五駄加増、のち更に足高新田二十八石を食み、高にして五十石となった。宝暦六年死去した。その跡を嫡子慶次郎親盈が相続、隅屋敷取次を勤めた。同十年江戸で死去した。親盈に嗣子がなく、弟茂弥太(のち所左衛門)が末期養子となって順相続をした。新屋敷取次、遊井名田番所番人、牛馬定役、鬼柳黒沢尻通代官当分、五戸通代官、沢内通代官などを勤めた。文化五年死去した。所左衛門に実子がなく、浦田伴助の弟文作が養嗣子となったが、文作は小奉行として蝦夷地出張中病死。重死の大法により家名断絶となるべき処、蝦夷地出張中の死を哀れみ、花巻給人上田弥四郎の弟左市(のち与五郎、勇左衛門)の末期養子が認められ、その家名を相続した。沼宮内通代官、安俵高木通代官などを勤め嘉永七年に隠居、安政五年死去した。その跡を北川斧八の弟福治(のち祐蔵、廉蔵)が相続、慶応四年に隠居した。その跡を傳次郎(のち哲郎)が相続、明治十一年の士族明細帳によれば、当時大沢川原小路に住居と見える。その跡を武夫━マキと相続、当主の誠氏は埼玉県に在住している。高五十二石八斗二升八合のうち地方三十二石八斗二升八合の采地は二十石余を寺林通椚目村に、十石余を同通金矢村(以上花巻市)に領した。残り二十二石は現米五駄二人扶持を食した。

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