荻原 おぎはら

荻原勇馬家 201227


 明治元年の支配帳に荻原勇馬家がある。弘化四年十二月二十九日大年寄荻の井の名跡立によって擬高九人扶持を以て創設され、安政五年九月十四日、雫石通繋村(雫石町)に野竿新田改高五十石二斗三升九合を加増せられ 高百四石二斗三升九合うち九人扶持を知行した。荻の井は藩主利済の生母清鏡院(利謹側室)に仕え女房。医師工藤玄良の二孫勇蔵(当時七歳・のち勇之助)を養子とし荻原家が興された。荻の井の実家は未詳であるが荻の井の荻字を組入れての家名 工藤家に所縁ある人と知られる。その後嘉永六年に勇之助は実家に帰り、替って戸来官左衛門秀包の三男勇馬是知がその家督を相続した。使番目付兼帯となり、公事用懸を勤め、維新後は監察、盛岡県大属、岩手県大属を勤めた。明治三年華頂宮博経親王がアメリカ留学の時、南部英麿、奈良真志、藤森主一郎らと倶に随行した。郁子妃は南部利剛の長女で、留学費用は南部家から出費された。同六年宮が留学先で病に倒れ、是知と藤森主一郎は随従帰国した。この年是知は華頂宮家家扶となった。明治十一年には東京に在住中であったが、士族明細帳によれば、加賀野村(盛岡市)三番屋敷に住所があった。大正六年東京で死去。その跡を千代吉が相続した。


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