花輪 はなわ

花輪図書家


明治元年支配帳に高知・花輪図書家がある。『参考諸家系図』によれば、鎮西八郎為朝の嫡男島冠者為頼の末裔閉伊十郎光頼を遠祖とし、花輪安房一朝を祖と伝える。一朝の父閉伊十郎左衛門朝重が天正十五年に閉伊郡花輪舘(宮古市)に移住、一朝の代に初めて花輪氏を称したという。その子内膳政朝の女松は南部利直の側室となり、重信の生母となった。重信は幼少を花輪で成長し、寛永七年盛岡城に移った。母松は髪長御前とも称されたが同十五年死去、慈徳院殿と諡され、花輪舘の一郭に葬られているほか、盛岡東禅寺境内に建立されている供養碑(石仏)は花輪地蔵尊とし称されている。一朝の家督は十郎親朝が相続、浪人にて花輪村で死去した。その跡を長男七右衛門政方(初め刈屋金助、金十郎)が相続した。重信の治世、寛文五年盛岡に召出され、現米二十五駄(高五十石)を宛行われた。延宝中に五十石を加増せられ高百石となった。貞享三年に隠居、剃髪して閑心と号し元禄元年死去した。その跡を嫡子七右衛門政氏が相続。同五年稗貫郡新堀村に九石五斗三升三合を加増。また元禄三年同郡八幡村、中島村に新田七十八石を加増、高百二十八石(高が不突合)となった。正徳三年死去した。その跡を嫡子才市郎(のち七右衛門)為重が相続、享保十五年に隠居して一夢軒と号し元文二年に死去した。その跡を享保十五年に嫡子金蔵(のち七右衛門)政商が相続た。雫石筏奉行を勤めた。宝暦中、病により嫡子金蔵を番代とし安永二年死去した。嫡子金蔵は宝暦中、父の番代となり、雫石筏奉行を勤中の宝暦十三年に尾入番所にて死去。父政商の家督は二男専次郎(のち直衛、源左衛門)政辰が嫡子となり相続した。初め父の番代にて座敷奉行表給仕兼帯当分加を勤め、家督後座敷奉行表給仕兼帯本役、武具奉行を勤め文化九年に隠居。その跡を嫡子祐次郎(のち栄、伊豆)政寿が相続した。御側役御側目付、御目付を勤めて、新丸御能興業御用懸(文政四年)などをを勤め、のち御用人世子御刀番兼帯となり、御領分諸木植立惣御用懸、御領分新田開発産物取行調御用懸、銅山差図方を勤めた。文政九年に七十二石を加増せられ二百石となった。天保四年加判役御側頭兼帯となり、世子傅役を兼ねた。同七年加判役御側頭世子傅役ともに退職、同十年加判役に復職。同年三百石加増せられて五百石となった。同年更に役料を足高により千石となり、同二年更に二百石されて加増、千二百石となり、高知家格に昇進した。嘉永六年死去した。その跡を嫡子徳之助(のち図書、博)政晏が相続した。安政元年前藩主利済が幕府の忌避に振れ謹慎処分で、家老横沢兵庫済衆等は失脚したが、政寿は既に没後であり、その子政晏に罪が及び半地取上、家格は平士となった。翌二年三たび加判役となり、新丸御番頭家格となった。同四年新田披立高、六十石一斗六升を加増、更に同六年八斗五升七合を加増せられ、高二百六十一石一升七合となった。元治元年二百石加増、高四百六十一石一升七合となり、高知家格に復した。慶応四年失脚、身帯三ヶ二取上、百五十三石六斗七升三合となり、家格は平士に引下げとなり、隠居となった。その跡を嫡子功一郎が相続、明治七年多病により、政晏(当時・博)が再び当住となった。明治十一年の士族明細帳によれば、東中野村(盛岡市)二十六番屋敷に住居と見える。その跡を二男力太郎━実と相続、その子で当主の幸雄氏は北海道に在住する。家紋は四つ目結 歴代の墓地は盛岡市北山の報恩寺にある。花輪家の廃藩の時身帯の采地は未詳であるが、天保十年、二百石内金方七十二石当時の采地は、三十八石余を八幡通新堀村に、五十二石を同通八幡村に、十二石を同通西中島村に、二十六石余を同通八重畑村に知行していた。

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