牛乳

盛岡藩の風俗誌

 江馬務の「日本風俗史」に「牛乳ハ嘉永ニ邦人ニ用ヒラレ、慶應二年横濱デ前田留吉ナル人始メテ搾乳ヲ業トシ、明治三年東京デ開業」したとある。「雑書」慶安三(1650)年七月廿八日の条に田名部之内中三沢より牛之乳筒井ロ、渡遺書左衛門取上ル、同四年七月十八日ニ牛之乳六盃九合筒五つ入石橋八郎右衛門久慈より上ル」とある。




【補註】平成20年4月13日       工藤利悦

「雑書」によれば、慶安三年七月二十七日条にみる「横浜(青森県上北郡横浜町)より牛之乳弐盃竹筒ニ入、渡辺喜左衛門上る」を初見とし、同年七月二十八日・二十九日、同年八月三日・十一日・十八日・二十六日、慶安四年七月十八日、同年八月十日条などに散見する

橘不染著『舶来づくし』によれば、

盛岡において乳牛を飼い牛乳を搾取して販売せしは、少しく他より遅れたりと覚ゆ。
明治十八年に予秋田へ行きしときは、秋田にては「柴村」というものが西洋種の乳牛を飼い、さかんに搾取配達せり。これを見て、予がうらやましく思いたり。さすれば、ようやく明治十八、九年ごろから盛岡には出来たりと思わる。そのはじめは、内丸の八重樫(内丸の赤十字病院通り、藩政時代に元蔵といえる米倉のありしところ)が最初ならん。この八重樫なるものは、牛産地岩泉の人にして、乳牛購入には都合よき方なり。
また下小路にてやはり八重樫市右衛門がやりしが、まずもってこの両家をもってはじめとす。
註 下小路の南沢ははじめなりという。次は上衆小路の小泉、もと南沢に使われたりという。

とある。
また山本縁著「増補盛岡砂子」に
丹後守屋敷  地所不詳
御当家秘書に下小路裏にあり、愚按に京極丹後守高国の配所屋敷のことなるべし、(本文下略)
補 維新後長内(京極丹後守高国の配所屋敷と伝えられる)氏が邸宅、並裏の田畑を岩泉村南館嘉兵衛に売却し、南館氏の田畑を潰して牛舎を設けて牛乳を搾り、公衆の飲料に販売せり。

この地は元勧銀支店付近に位置し、現在南沢家宅。同家は栗山大膳利章の謫屋敷跡と伝え、地内に栗山神社が鎮座している。栗山大膳の謫屋敷跡は現盛岡市中央公民館敷地内の一郭がにあったことから推して、京極丹後守高国謫屋敷が何時かの時点で栗山大膳の謫屋敷と転嫁されたものであろう。
牛乳を飲む風趣は、牛を飼育する地域にては、藩政時代を通じて保養飲料とし永続していたものと推察されるが、具体的なことは、史料上では確認するに至っていない。

白髯翁(谷河尚忠)著戊辰前後の楢山氏によれば、楢山佐渡が切腹の数日前から絶食をしていため、体力が疲労甚だしく、医師の勧めで牛乳を茶碗弐盃呑んだところ「果して即効が為り両眼もはっきりと気分も回復した。そこで髪、月代、襟垢等を清め、便所に行こうとするので弓太はこれに付添おうとすると、其方は控えよと貞助、辰五郎両人に介抱されて行くが、足もとはふらふらし、歩行も確かでないので、再び牛乳を用い、暫くして元気益したのだった.」と故事を伝えている。


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