白髯翁(谷河尚忠)著『戊辰前後の楢山氏』について(紹介)(一)

学校法人桜美林学園理事
小川欣亨

 岩手県下閉伊郡川井村に澤田家はある。現在の当主は十二代目の洪基である。四代前の八代目を澤田長左衞門という。長左衞門は文政十年(1827)三月十日に生まれ、大正四年(1915)十二月二十九日に没している。

 澤田家は代々楢山家の老役を務め、長左衞門は、楢山帯刀・佐渡の二代にわたって主家に仕え、その献身振りついては、本文に詳しい。長左衞門の壮年期は、江戸幕府崩壊の兆しから終焉まで、そして維新後に続く激動期に重なっている。

 『戊辰前後の楢山氏』は明治四十三年(1910)六月二十六日から同九月二十二日まで六十回にわたって「岩手日報」に掲載された。筆者は谷河尚忠(たにかわひさただ)、白髯翁(はくぜんおう)である。

 谷河は楢山家親族の一家であり、長左衞門と同時代の盛岡藩士である。天保五年(1834)に盛岡に生まれ、南部藩箱館兵営に務めたり、戊辰奥羽越同盟で仙台白石に出役したりしたのち、明治になって七戸藩権大参事・岩手県議会議員・衆議院議員・高知県知事、盛岡女学校(現白百合学園)の第五代校長等を歴任し、大正七年(1918)に没している。『戊辰前後の楢山氏』を岩手日報に連載している頃は、盛岡女学校の校長時代である。

 この連載記事には、いわゆる番方武士ではなく、楢山家の家計をはじめ一切を取り仕切る執事的役割を担って、後世に家臣の鑑と称せられた長左衞門の姿が余すところなく書き留められている。

 さて、ここで、私が澤田長左衞門に関心をよせるわけにふれておく。
 もとより私は、歴史学者でも郷土史家でも研究者でもない。私の愚妻の姉が、現在の澤田家十二代目洪基に嫁している。私は近世古文書と幕末史に多少の関心をもっているだけであるが、身近に興味をそそる人物が存在するので、長左衞門の資料を探していたところ、近世文書研究所の工藤利悦主宰から義姉が手に入れたものが、この連載記事である。それをリライトしたものがこの一文である。現在の澤田家一統が読み易いように、日付(新聞掲載日)をはずして連続性を保ち、筆者(谷河尚忠)の文体・文意の趣を損なうことのないように注意した。

 当初から公表を意識したものではなく、ただ澤田家のためだけに残すことを目的としたものであるが、このたび、工藤主宰からホームページに掲げたい旨のお話があった。はじめは、いろいろと内容に支障があったり、迷惑を受ける方もいるのではないかと危惧したが、一つの歴史認識とかんがえればよいのではないかと思い改めてお願いすることとした。

 澤田家に保存されていた多くの貴重な楢山家関係の資料は、その大半は岩手県立博物館に委託保存されている。しかし、未整理のものも澤田家の土蔵にあり、いま手遊びに解読にとり組んでいるので、機会があれば諸賢のご批判を仰ぎたい。因みに、今まで整理したものは
 1 南部禁制禄
 2 楢山於種様婿養子寄附帳
 3 御参勤御供登入用留 地
以上三冊である。
                     平成十五年九月


【本文】

白髯翁(谷河尚忠)
  『戊辰前後の楢山氏』

 楢山氏は、南部侯廿二代政康公の第四子である信房を始祖としている。信房公ははじめ三戸郡の石亀に住み、石亀氏を称していたが、のちに同郡楢山村に移ったので楢山氏を称するようになった。信房から十代後の子孫を楢山帯刀(隆冀・たかくに)と言う。一門は代々南部侯の老職である者が多く、帯刀もまた老職であった。帯刀の長子を佐渡(隆吉)と言う。天保二年(1831)五月生まれで、幼名を茂太と言った。当時、南部侯は三十八代利済(としただ)公の時代であり、帯刀は老職にあり、また、その妹の烈子は利済公の夫人であった。夫人は世子信候(のぷとも)公以下二男、三男、四男を産んで楢山家も繁栄の時であり、茂太は五歳の時には、この夫人の住居である広小路御殿に召し出され、公子達のお相手を勤めていた。

 天保七年七月、六歳の時に城内の蓬来馬場で君公が乗馬を試みられた折に茂太もお相手を勤め、口付の者を退かせて独りで轡(くつわ)を繰り、鐙(あぶみ)踏張り掛声高く馬を走らせるのを君公は大いに賞賛し、即座にご紋付馬具を褒美として与えた。

 茂太は幼い時から活発で、三歳の時に乳母の手を離れ、表座敷で側使の家来達と遊戯をし、広小路お相手勤の頃は夜の九つ時(今の十二時)頃に退出のことも多く、退出の時には重詰のお菓子、お肴等を拝領して持帰り、家来達ヘ分けるのが常であった。

 帯刀には男女の子供が数多(あまた)あった。先妻は奥瀬内蔵の妹であったが、一女を生んで病死した。(この一女は名をたよ子と言い、生長してから南部弥六郎の妻となる)後妻は八戸美濃の娘であったが、数年を経ても懐妊しなかった.そこで、広小路御殿の女中をしていた、厨川五郎左衛門の妹きゑを妾にと烈子夫人から贈られ、このきゑから茂太およびその妹いと子(後に安宅正路の妻)が生まれた。

 その後また、りせと言う妾を召し、このりせから、奥瀬與七郎、向井長豊、桜庭祐橘、南部恭次郎、漆戸源次郎等へ嫁いだ女子および常弥、乙弥等の男子が生まれた。このように門葉は次第に広まり、人の羨む家柄となったが、茂太は幼年から家来達及び仲間小者に対して驕(おご)り高ぶる態度はなかった。好んで昔噺(ばなし)を聴き、頼光の四天王、鋼金時の事など虚実とりまぜ、すべて強い者の物語を喜こび、弱い話は大嫌いで、戯れにしても強いことでなければ気に入らなかった。

 また、嫡母八戸氏は老後、眼病で物を見て娯しむことができず、慰めとする子もなく、小鳥数十羽を飼育して楽しみとしていたが、茂太はその食飼料として時々、多少の金を進んぜたり、御城動の年になると、登城の砌(みぎり)の暇乞(いとまご)いに怠らず、また退出後には何かその日その日に見聞したことを語って慰めるなど、実の子でも及ばない程に思いやりの深いことであった。

 茂太は成長に随(したが)い、益々文武の業を励み、字を書くことは楢山備に、経書の素読は大沼金太郎に、講義は奥山弥七、下田春治、藤井又蔵に、剣術は長嶺七之丞、伊藤半之丞に、弓術は赤沢忠助、石亀千春に、槍術は江釣子貞七、青木俊助に、馬術は斉藤紋左衛門に習い、右の諸芸お相手、御側詰、御近習頭、加判役勤中に至るまで、少しも怠らず、或いは朝のうち、或は夜分にも弓術は巻藁、馬術は木馬で練習をした。

 茂太は膂力(リょリょく)強く、側役の若者などと角力をとっても負けることがなく、弓も強弓だけを使った。そして、容貌が美しくそれでいて妖冶(ようや)ではなく、身の丈も高く凛乎(りんこ)とした好丈夫であり、面会する者はみな敬畏の心を禁じ得なかった。

 天保十四年、十三歳にして御小姓を命ぜられ、弘化二年(1845)十五歳で元服し、嘉永三年(1850)二月二十四日、経学出精の賞として利済公から御召小袖を拝領した。しかしこの時期、藩主利済公は、去る天保十年十二月に少将に任ぜられて以来、もっぱら安逸を旨とせられて、幕府への参勤を厭(いと)い、嘉永元年(1848)六月遂に病と称して致仕(隠居)せられたが、幕府向には隠居といっても、藩政はすべて少将公が決定していた。家督である長男甲斐守信候公は虚位であり、そのうえ少将公の意に副わず、翌二年六月にこの公も、また病をもって致仕せられて大太守様と称せられて、江戸邸に間居の身となり、その弟(利済公の三男)利剛(としひさ)公が家督を継いだが、藩政は依然として少将公の手中にあった。信候公致仕に関しては、臣下の志士で罪を蒙った者数人また民間にも不平の徒を生じ、後日一揆の騒擾(そうじょう)を大きなものにした。信候公は益々不遇を恨み、病気で致仕せられたにも拘らず、江戸邸にあって世の見聞を憚るような挙動があった。利剛公は上に少将、大太守の両尊を戴き、領内の士民に臨むに際し、敢て自ら用いず恭倹自持(きょうけんじじ)の志をもって時の来るのを待っていた。盛岡の大奥は侫人(ねいじん)の巣窟(そうくつ)となり、下水の溝渠(こうきょう)は女中の化粧水が漲(みなぎ)り、お互いに競って少将公の騰奢(きょうしゃ)の意を迎え、種々の新趣向を勧めて領民の難苦(かんく)を顧りみずに、苛税を課し、富豪者には例外の用金を要求したりした。その結果として、人民の一揆は再三起こり、嘉永六年には終局の一揆が遂に仙台へ赴き藩政の苛虐(かぎゃく)を訴えるに至った。

 これより先、嘉永四年(1851)五月一日に楢山茂太は御側詰の役儀をもって、新藩主利剛公参勤の御供登を命ぜられた。翌五年五月朔日(一日)、御近習頭を命ぜられ、廿六日には五左衛門という名を拝領し、九月廿五日には加判列、同六年正月廿四日には加判役を命ぜられた。折柄、野田一揆が起こり真に南部藩の大事なので、大老の南部弥六郎と心を合わせ、少将公へ強て言上しようとした。

 少将公は病と称して、両人の目通りを許さないので、然らばと引下るような事柄ではなく、強て大奥へ進み入り込んだために、少将公の不興を蒙って両人とも出仕遠慮を申し付けられた。七月二日に上使を以て長文の罰文を申し渡され、役儀御免差し控を命じられた。これらはすべて石原汀等が讒諂面諛(ざんてんめんゆ)するところであった。仙台へ立ち越した一揆勢もこのことを聞き及んで、益々仙台家へ愁訴の度を進め、仙台家においても一揆勢の言い分を諒とし、南部家への談判は益々厳しく、一揆の者達を簡単には返さず幕府への申し出の趣もあり、そうなれば南部家への厳格な沙汰にも及ぶだろうという噂もたった。少将公に上府すべき命令が下り、盛岡の大奥向きは大いに恐慌を来たして、十月六日弥六郎と五左衛門(佐渡)に再勤を命じ、同八日弥六郎は仙台へ赴くこととなり、辛うじて一揆勢を引き受け帰ることとなった。同十一日、五左衛門は御勝手御用掛となり、少将公上府の御供登を命ぜられた。十一月七日、大老南部土佐は使臣等を統制することができず、国家の大事を醸したという趣意をもって隠居・蟄居を命ぜられ、石原汀、田鎖茂左衛門等は奸侫邪曲(かんねいじやきょく)の罪をもって家禄、邸宅、家財とも没収、その身は親類預け謹慎の身となった。

 こゝにはじめて藩政革新の端緒が開かれた。元来、五左衛門は少年の時から利済公藩主以来の弊政を改革しようとする志操を抱いて来たが、こゝに至って益々決心の度を強めた。

 幕府から屡(しばしば)少将公の上府について催促があっても、少将公は深く失望の渕に沈み、大奥を離れて発駕(はつが)する勇気がなく、病気、病気と一日暮らしの猶予を求めていたが、幕府においては益々切迫の沙汰になっていたので、五左衛門は強て少将公へ諌言(かんげん)し、あるいは聞き入れなければ腕力で引き立てなければならないのではという現状に、少将公は恐懼(きょうく)して、五左衛門は予を殺す気かとまで言われる程で、五左衛門も涙を流しながら、何を申すも御一身の安危のみならず、南部家の御大事に係りますので、どうかご決心してご上府願いたい旨、懇々と理由を説き、或いは諌(いさ)め、或いは慰めなどするうちに漸くにして承諾した。

 嘉永七年正月廿六日、渋々ながら発駕せられたが、その日は僅(わず)かに城下の北上川を越して、すぐの仙北町御仮屋へ止宿するにとどまった。その後も、一日四里、五里の旅行で二月廿日に江戸へ着いた。五左衛門は昼夜お供の中にあってご機嫌を伺い、一方ならぬ辛苦を積んで、兎に角江戸まで来たが、幕府から前もって伊東修理大夫、南部丹波守に監視するよう命令があって、桜田邸に入ることはできず、麻布の下屋敷へ入って謹慎の身となった。

 五左衛門は幕府の大老阿部伊勢守宅へ呼び出され、若年寄一同列席、その他寺社奉行、大目付、与力、同心等大勢詰合、門前の警備は厳重で、左の件々について尋問があった。
 第一には、信濃守は累年、病気を申し立て参勤をしない理由、
 第二には、城へ副(そ)え新丸を造った理由、
 第三には田地を潰し寺院を造った理由、
 第四には田地を潰し家屋を建造し数多の士分を召し抱えた理由、
 第五には領民から多額の金員を取り上げた理由、
 第六には国政を乱し驕奢に耽る理由、
 第七には天保年度より度々百姓共嘆願と称し騒擾する理由、
 その他にも松前表(おもて)警備の件などがあった。

 五左衛門は右の尋問に対し、一々明答のうえ、なお詰問を待つ気色で吃度(きっと)伊勢守の顔を見上げると、伊勢守は追って尋ねることもあるだろうが、今日は退出せよとの命を下して座を立ったので、五左衛門も退下した。帰邸してから、如何なる変事があるかと心配していたが、その後信濃守の他出を禁じ、謹慎せしめ置くとの事で、無事に済んで、五左衛門始め邸内一同安心したということである。

 こゝにまた、甲斐守信候公が家督間もなく父君の不興をもって隠居となり、弟利剛公へ藩主を譲る不幸に遭遇して以来信候公は、内心の不平は一方ならず、自ら挙動に露われ薄々幕府の嫌疑を受ける所となってきたので、これまた五左衛門の尽力するところとなり、屡諌言し、たとえ大した罪はなくても父君の不興を蒙った以上は、もし不謹慎の事があったならば、益々父君が幕府の譴責を深くする結果となり、孝道に背くことは勿論、南部家の浮沈にも影響する所となる旨を聞かせても容易に聴入れる様子もなく、後には五左衛門参上と聞くと錠口を鎖(とざ)し、拒絶するようになってしまい、当惑のあまり、遂に座敷牢同様の取扱いを為(な)すに至った。


 抑(そもそも)、五左衛門の身にとっては、少将また大太守様と言へば南部家の臣民として強迫がましい所為(しょい)などあるべき道理はなく、そのうえ、内実は血縁の深い叔母聟、従兄弟の情誼もあり、もし余人ならば、このょうな事件に対しては避けるべき事情であるにも拘らず、ひとえに南部家の安危存亡という点に着眼し、常に一身を犠牲にして堅忍不抜(けんにんふばつ)自信の確かさにかる所為と言うべきであろう。

   【参考】
   南部利済・信候(後の利義)・利剛と楢山佐渡の関係

       南部利済
         ├───┬利義(信候)
  楢山五左衞門┬烈子  └利剛
        └帯刀隆冀─佐渡隆吉

 一面には藩政糜爛(びらん)のあまり、財用困難の極に達し、是非なく藩士家禄の幾分かを五カ年間借り上げる事などを断行したが、なお未だ領民の疲労を休養することができず、加えるに安政二年(1855)の江戸大地震により桜田邸倒壊のうえ焼失し、水戸家との婚姻、少将公の薨去(こうきょ)、箱館表兵営の新設、江戸、京、大坂へ重役の往復頻煩(ひんさ)など、これらのこと悉(ことごと)く五左衛門の双肩にかゝらぬものはなかった。しかし、利剛公が藩主となられて以来、五左衛門を重用せられ、吾に五左衛門あるは家康に本多佐渡守あるが如しと言って、安政二年五月五日、江戸登申し付けられ、同七日出立の際に佐渡という名を賜った。佐渡の言うことは利剛公は大かた聴許するので十分に驥足(きそく)を伸ばすことができた。佐渡の地位はこのようなものだったので、内外の信望もあり、幕府向は大老阿部伊勢守の知遇を受け、財政上には従来の領分である鹿角郡の産銅を抵当として大坂豪商の融通を受けていたが、近来は不返済がちのため信用を失い、佐渡が大坂へ依頼に及び、一応は不承諾ではあっても信用を回復して、再び融通を得ることとなり、兎に角、持続することができるようになった。


 さて、首を回らして、楢山氏の家計を顧りみれば、家禄千三百石の内、紫波郡吉水村二百石、稗貫郡飯豊村百八拾石、此の収納米は二百弐拾駄程、岩手郡松尾村百二拾石、同(註二戸郡)姉帯村七拾余石、此の両村は金目高として一石は銭壱貫文のみ、其の他は閉伊郡閉伊川沿岸十一ヵ村およそ六百七拾余石、金目高一石銭一貫五百文より一貫四百文位で、その内三百八拾余石は寺社及び家来共の禄高に向け、残りを楢山家の生計に宛(あ)てており、固もとより禄高相当の軍役を務めるのに足りないこともあった。

 佐渡の父帯刀が幼少で家督を継いだとき、盛岡在住の家来北向仁右衛門という者、役人を担当させたが、此の者が身分不相応の驕奢を為(な)して楢山家を利用し、自己の懐中を肥やし主家をして吉凶の諸費を支出するにも困難な境界に至らしめた。楢山家は家来共の数多く、そのうえ家族に帯刀の伯父両人、伯母一人、弟二人の厄介者がおり、常に家計不足を告げ、閉伊郡各村の領地へ定目収納外の用金を依頼し、纔(わずか)に費用を弁ずるという状態であった。佐渡は幼少の頃からこれらの事情を見聞し深くこれを憂えていたために、平生節倹を心掛け壮年の頃は兄弟姉妹大勢となり、益々家計の困難を感じ、文武の嗜(たしな)みに係る品物も質実を旨とした。

 当時、盛岡は少将様時代で重立ち役人などは、常用の大小刀も赤銅七子に金模様の鍔縁頭(つばぶちかしら)等を用い、その家々には贈賄の行なわれるにまかせ、妻子の衣服を飾り、台所には美酒佳肴の乏しきことはないという有様で、佐渡はこれらを深く感概し、これらの弊風を改めることに専ら心掛けた。自分は節倹を守り大小などは鉄鍔を用い、縁頭目貫(めぬき)の類も目立たぬ品を選び、家族の衣服も華美な品を厳禁した。加判役に上っても、賄賂のために諸役人を登庸することなく、たとえ親戚でも無能な人を役方へ薦(すす)めるなどということは一切なかった。生母の実家は貧困であったので、生母及びその母などから、何かお城向の小役人に取持方を頻(しき)りに願われたが、手もとで及ぶだけの救助は時々しても生涯役人等に推挙するということは一切なかった。佐渡は酒を好んで時には一升ほども飲んだが、平生は二三合に留め、節倹のためか、或いは家来共にも与えるためか、常に濁酒を造らせて置き、手桶で家来共仲間小者にまで分け与えることがあった。自分は醪(もろみ)で、盃は茶漬茶碗を用い、別に肴を用意することもなく、有合せの食膳で済ませ、たまたま外の皿物椀物などある時は、側向の家来共を招き、その品を肴として共に酒を飲むことが常であった。

次ページ


一覧にもどる