八戸地域史 第45号 八戸歴史研究会 平成20年10月5日刊
一 はじめに
八戸藩の村役人制度は、代官の下に名主−乙名−組頭という、いわゆる村方三役といわれる村役人のほかに、大下書、田屋という村役人がいた。大下書、田屋については、その由来や選任、職掌、さらに名主との関係などについて不明な点があり、八戸藩の農村組織を究明する上で課題となつている。
この村役人制度については、筆者は以前に『下長の歴史』 で一度論じ、さらに 『種市町史』 通史編で史料をあげて詳論したことがあった。今回、『大野村誌』史料編二巻を編纂する機会が与えられ、この編纂の過程で大下書などに関する新たな史料を発掘できたので、この史料を引用しながらこの村役人制度について再度論じてみることにする。
ちなみに八戸藩の村々は、藩政中期以降は、八戸廻、名久井通、長苗代通、久慈通、軽米通の五「通」と、「通」の名称を付さない志和に編成され、各「通」と志和には代官が置かれて地方行政が組織されていた。代官の下には、村政の最高責任者たる名主がおり、名主の下には各村を代表する乙名がいて、それぞれの村の運営にあたった。これに対して、大下書や田屋は代官と名主との中間に位置する村役人であり、名主のように直接村政に携わることは多くはなかったとみられている。
二 八戸藩の村役人組織
八戸藩の村役人組織をみるために、天保七年(1836)頃と推定される史料を各「通」別に整理して掲げると、次の表1の通りとなる。
天保七年頃八戸藩村役人一覧
行政区域 | 大下書 | 名 主 | 田 屋 | 八戸廻 | 惣門丁忠蔵 | 湊名主 久兵衛 浜通名主 六日町松大郎 山根名主 十六日町新兵衛 新井田名主 田向孫右衛門 是川名主 鍛冶丁五郎八 島守名主 三郎兵衛 糠塚名主 大工町儀兵衛 入作名主 長横丁喜作 | 湊田屋 八日町与兵衛 浜通田屋 鍛冶丁清兵衛 山根田屋 名主持 新井田田屋 大工町治郎吉 是川田屋 鍛冶丁忠右衛門 島守田屋 大工町藤八 糠塚田屋 名主持 なし | 名久井通 | 六日町金兵衛 | 法師岡名主 与助 苫米地名主 五郎吉 剣吉名主 久六 名久井名主 久治 市ノ沢名主 多吉 | 法師岡田屋 惣門丁権太郎 苫米地田屋 廿三日町弥七郎 剣吉田屋 十三日町千代松 名久井田屋 十三日町嘉右衛門 市ノ沢田屋 荒町友吉 | 長苗代通 | 二日町末吉 | 河原木名主 櫓横丁多兵衛 大仏名主 矢沢彦六 売市田面木名主 小平治 櫛引名主 櫛引孫四郎 入作名主 廿三日町津右衛門 | 河原木田屋 廿三日町甚太郎 大仏田屋 廿三日町与右衛門 売市田木屋 廿六日町杢太郎 櫛引田屋 廿三町久兵衛 なし | 久慈通 | 八日町中野丈右衛門 | 八日町平右衛門 八日町忠吉 八日町徳太郎 大野村吉三郎 三日町儀助 | 八戸櫓横丁 長兵衛 | 軽米通 | 大町周吉 | 荒町熊五郎 蓮台野孫市郎 蓮台野重兵衛 | 八戸三日町 吉十郎 |
これによると、八戸藩の村役人の組織と人員は、八戸廻は大下書一人・名主九人・田屋八人、名久井通は大下書一人・名主五人・田屋五人、長苗代通は大下書一人・名主五人・田屋四人、久慈通は大下書一人・名主五人・田屋一人、軽米通は大下書一人・名主三人・田屋一人となつている。ただ八戸廻や長苗代通名主については入作名主も入っており、この入作名主は村の管轄はなかったので、実質的な名主は一人少ないことになる。
そうすれば、久慈通や軽米通を除くと、各「通」は、大下書は一人、名主は数人、田屋は数人というのが八戸藩の村役人の基本的仕組みであった。名主と田屋の数は、対応しており、名主の支配村ごとに田屋が配置されていた。一方、久慈・軽米通は、大下書は一人、名主は数人、田屋は一人となつている。名主に対応する田屋がなく、「通」全体で田屋が一名しか置かれていなかった。また村役人に選任された人名を見ると、八戸廻・名久井通・長苗代通は大下書・名主・田屋とも八戸の町人が就任しているのに対して、久慈通・軽米通の場合は、田屋は八戸町人であったが、大下書・名主は久慈・軽米に居住する在郷者が選ばれている。
久慈・軽米通は「通」に田屋が一名であり、しかも大下書・名主は在郷者の選任であったことを考慮すると、久慈・軽米通の大下書や田屋は、八戸廻などの三「通」とはその役割が本来異なつているということを意味している。久慈・軽米通の大下書や田屋はどのような役割を果たしていたかは後述するが、概括的に言えば、普通大下書は藩と村を取り次ぐ仕事を八戸城下で行っていたのに対して、久慈・軽米通の大下書は八戸城下の居住者ではなかったので、この取り次ぎ業務をしていなかったことになる。また久慈・軽米通の田屋そのものは一人だけの配置であったので、田屋は個々の名主の管轄村だけを分担したのではなく、久慈・軽米通全般の業務を担当していたとみられる。そして、田屋は八戸城下に住んでいた故に在郷者である大下書に代わって、藩への取り次ぎ業務を果たしていた。このように久慈・軽米通においては、八戸廻などの三「通」に比して村役人の役割が異なつていたのである。
三 大下書庄屋名主勤方定日帳
名主の職務と大下書との関係について記録した史料に「文化元甲子九月 大下書庄屋名主勤方定目帳」がある。これは寛延三年(1750)に久慈代官が大下書・名主などの村役人に対して勤め方を指示した定目帳である。その後、この定目帳が名主所に所持がなく、先名主からの引き継ぎもなかったとして、文化元年(1804)に再度代官が大野村名主の晴山吉三郎に交付した。
定目申渡事 一、御用儀ニ付大下書所へ名主寄合之節は御役所へ願出差図を以寄合可致候、但廻状之儀は御役所より差出可申候、寄合刻限無相違大下書所へ相揃可申候、尤右刻限ニ相揃不申候名主有之候ハヽ大下書より其段無遠慮訴出可申候、其上寄合相済仮令ハ夜深ニても寄合相済候段大下書より訴出可申事 一、大下書儀は志和御下代同様之役目故,平日腰差(ママ)を指可申候、尤在々へ申渡之御用其外改候御用儀差違候節は大小ニて罷越可申事 一、以来総名主其外下役共ニ、万事大下書へ律儀ニ挨拶等可致事 一、名主共烈座之義ハ、先役後役を以罷出可申候、不断共右之通可相心得事 一、諸御用寄合之節相談存入等之儀ハ、万事先役より無遠慮可申談候、愈相究不申候ハヽ大下書より存入承多分相片付可申出候、其上ニて御代官存入を以可申付事 一、寄合之節博突并酒美食等決て停止之事、其外碁将棋むた噺等致間敷候事 右之条々相用不申者有之は、大下書より可申出候、万一全遠慮不申出候ハヽ、後日大下書不念可申付事 一、御用ニ付呼候節、御役所へ長髪乱鬢ニて決て罷出申間敷候、不快ニても有之候ハヽ兼て大下書迄訴出可申候、左様も無之長髪乱鬢ニ有之候ハヽ急度可申付事 一、五節句并朔日十五日廿八日御役所へ為月並可罷出候、乍然遠在名主は五節句計可罷出候、町名主下書田屋右之通可罷出候 一、諸御用ニて呼遣候節、差掛病気等之届致候ハヽ急度手当可申付事 一、病気ニも無之節名代等決て差遣申間敷候、兼て病気届致候節は格別之事候、尤長病ニ有之候者仮役可申出事 一、御用ニて呼申遣候節、致他行留主之届挨拶等決て致間敷候、尤先所宿元へ為知置早速可罷出候、内用ニて近所近在へ罷出度義も有之候ハヽ大下書を以願出可申事 一、御百姓共より願出候儀ハ、大下書所迄持参吟味之上致差図、御役所へ差出可申事、諸御用大下書所為書留可申事 一、御百姓共より諸願名主共持参申候ハヽ、大下書無遠慮加筆いたし為差出可申候、其上筋違等之願ニも有之候ハヽ、無遠慮差留候て不苦候、然共押て願出候儀も有之候ハヽ、先差留置内意可申出事 一、諸願加筆令遠慮不吟味為差出申候ハヽ大下書不念可申付事 一、御百姓共出入等有之候節名主共了簡ニて相沈兼候ハゝ大下書へ内意申談以大下書を取しつめ申様可致候、左様ニて相沈不申大下書了簡及兼候ハゝ大下書より内意申出得差図可申事 一、在々出火有之候ハゝ早速相改訴可申候、尤火元之義は無窺縄下可申付事 一、火事之節前々之通御人足相出名主共人足召連相詰可申事、尤御町居掛候名主只今迄は遠在預り故罷出す候得共此以後罷出於火事場御代官以差図御人足引廻可申事 一、出火之節入作小走ハ御代官手付之方へ早速相詰可申事、一方へは町方早速相詰可申事 一、在々欠落者有之候ハゝ十日之間を直訴可申候、日限延候ハゝ名主庄屋手付ニよって不念可申付事 一、御代官所ニて諸御用ニ付万事申付候義ニ寄上御為ニ相成、亦ハ下之為に相成不申筋下之為ニ相成候ても御上御為ニ相成不申儀有之存入申出度候ハゝ無遠慮一通ハ可申出事 一、大下書以役権を筋違等も有之候ハゝ名主とも大下書へ無遠慮存入可申聞候、若相用不申候ハゝ可申出事 一、御勘定ニ至上納無心元名主共は仲間へ不隠置申談前広ニ相談之上御勘定之節出入無之様可致候、万一不心得ニて隠置御勘定ニ差掛申出候ハゝ急度可申付事 一、名主共通帳見届不上納之輩有之ハ大下書無遠慮不審をうち吟味之上仲間共打寄心添可致候、万一相用不申名主有之候ハゝ御代官へ内意可申候、致遠慮不申出御勘定之節不上納出入等有之候ハゝ大下書不念ニ申付候間吟味可致事 一、御代官所より諸廻状相出候ハゝ刻付致相廻シ早々相返し可申事 一、御用之儀ニ付呼遣候節刻限過申遣候共致延引候段以之外不屈ニ有之候、此以後刻限無相違急度可参候、若延引ニ有之候ハゝ手当可申付事 一、諸御用ニて呼寄候節大下書へ立寄申付候御用共為相知為留可申事 右ケ条書之通急度相守相勤可申候以上 寛延三年午三月 佐々木新六 荒井 類 大下書 総役人共へ 右此度相尋候所先役之名主共より引渡無之右書付名主所ニ無之旨申出候間今般相渡候、以来後役之者へ段々引渡可申候、以上 文化元甲子九月 長沢忠兵衛 印 稲葉 貢 印 名主吉三郎 これによれば 一、大下書所での名主寄合の際には代官所に願い出ること 一、大下書は志和下代と同様の役目なので平日腰差しを差すこと 一、給名主や下役は万事大下書に挨拶すること 一、名主寄合において諸事決定できないときは、大下書の考えを聞いて決定すること 一、百姓よりの願書は名主が大下書所へ持参し、大下書が吟味して代官所へ提出すること 一、百姓の願書は大下書が遠慮なく加筆し、筋違いの場合は差し止めて構わない 一、百姓の出入(紛争)を名主の一存で取り鎮め兼ねるときは、大下書が取り鎮めること 一、出火の際は名主が火事改めを行い、火元は伺いをせずに縄下(捕縛)してよい 一、火事には名主が人足を連れて参集すること 一、欠落があった場合は出訴に十日間の猶予を与えるが、それを越えると名主の重過失とする 一、年貢の勘定までに上納が心もとない名主は、隠さず仲間と相談して過不足なく上納するようにすること。隠し置いて勘定の際に申し出たときは許さない 一、大下書は名主の通帳を見届け、不上納の者があった場合には名主仲間と協力して上納できるように取り計らうこと。もし勘定の際に不上納や過不足があった場合は、大下書の重過失とする 一、代官所からの回状は刻付をして村々を回し、早く返却するようにすること などということが記されている。
要するに名主は、大下書の指図の下に名主寄合を開いて諸事を決定したほか、百姓願書の提出、村紛争の処置方法、出火時の人足出動と火元人の捕縛、年貢勘定の不納時の協議などといったことを遂行している。名主寄合で諸事判断できないときは、大下書が指図して決定し、名主持参の百姓願書へは審査と加筆を行い、名主が対処できない村紛争には大下書が直接介入した。また年貢上納にあたっては、大下書は名主と協力して年貢収納に心を用い、勘定時に不納があった場合には、第一義的には名主の責任ではあったが、大下書にも責任があるとされた。
ここでの大下書と名主の関係は、大下書は名主の上位に位置し、大下書の強い指揮監督のもとに名主は村政を運営していたことが読み取れる。とりわけ治安の雖持や年貢の定時収納には、名主ともども大下書も協力すべきとされた。大下書の名主への協力の必要性は、大下書そのものが名主を長年勤めた行政経験者が登用されていることからも知られるし、それだけに名主の村政運営をバックアップしやすかったといえる。
また従来どれだけ大下書が名主の村政に関与できたかは知られていなかったが、当史料によって大下書は名主寄合の決定権に影響を与えることができ、百姓からの願書には加除修正を加え、大下書の判断で代官への上申を却下したり、村紛争にも介入することができたのである。つまり、村役人の指揮系統上では、大下書は名主の上位に位置することは明らかである。
四 田屋の年貢預証文 田屋の職務を知るものとして次のような年貢関係の史料二点をあげる。
イ 覚 一、金七両 御年貢 一、弐百文 休野御年貢 一、五貫三百升弐文 御蔵御舫銭 〆 右は野田様御上納金慥ニ奉預置候間御引取次第上納御印紙ヲ以御引替可仕候、為念如件 子七月二日 田屋 儀兵衛 名主 晴山吉三郎様
ロ 覚 九月御割合皆納 一、大槻様 御年貢上納金 同 一、駒井様 諸出金上納 同 一、稲葉様 壱石三百文貸上金 当月中 一、河原木様 御山役銭 〆 右之通此度送状表之通上納金慥ニ預置候間近日上納御印紙差上可申候、為念如件 田屋 儀兵衛 印 酉十月十七日 大野名主所晴山吉三郎様
これらの史料は、大野村名主の晴山吉三郎が収納した年貢金や舫銭、並びに請出金、貸上金などを八戸にいる田屋儀兵衛が預かった証文で、田屋が藩の担当役人へそれぞれ上納しだい印紙(受取証)を送付するというものである。担当役人は、史料イでは野田、史料ロでは年貢金が大槻、請出金は駒井、貸上金は稲葉、山役銭は河原木であった。
久慈通おいては名主が取り立てた税金は、名主が直接藩庫に納入するのではなく、城下に居住する久慈通の村役人たる田屋へ一旦預け、田屋から藩役人に上納されていたことになる。藩へ田屋が上納すると、藩役人から名主宛に受取証が発給された。藩への上納金は、『大野村誌』第三巻史料編二収録予定の史料によれば、現金ではなく久慈為替で八戸の田屋へ送られていたようである。ちなみに、この預証文の年代は、嘉永二酉年(1849)と明記された田屋嘉吉の預証文があることから、この頃のものである。 なおここで注意しなければならないのは、この史料は久慈通田屋の事例であるということである。田屋による藩庫への上納は八戸廻などの行政区域でもそうであったかは、今後史料を収集して検討する必要があろう。
五 名主の選任と職務
八戸藩の名主は藩政初期では、盛岡藩と同様肝煎(きもいり)と呼ばれていた。元禄七年(1694)からは、その名称は名主と改められた。名主の業務は村政の最高責任者として年貢の徴収を始め、藩からの法令の布達、公文書の作成、村落秩序の維持と教化、藩への訴訟と他村との交渉、土地売買の取り扱いなど、村落生活の多岐にわたっていた。
八戸藩の名主配置の特色は、一村一人の名主が置かれていたのではなく、数力村を一人の名主が管轄していたことである。文久二年(1862)の八戸廻名主では、名主は種市名主、山根名主、新井田名主、湊名主、柏崎名主、島守名主、是川名主、町分名主(糠塚名主のこと)、入作名主の九人がいたが、その中の種市名主を例にすれば、名主忠作は種市村・小船渡村・鯨洲村・平内村・川尻村・小橋村・玉川村・戸類家村・宿戸村・八木村・道仏村・大蛇村・金浜村・大久喜村・法師浜村・大久保村の十七力村を管轄していた。
名主には、その選任の仕方によって郷名主と町名主の区別があった。郷名主は関係村落から選ばれる名主であり、町名主は八戸城下の町人から選ばれた。知行地の名主は郷名主が一般的であるのに対して、蔵入地の名主は前掲1のように久慈・軽米を除くと町名主が多かった。久慈通名主の場合は大野村の晴山吉三郎を除くと久慈町から選ばれている。
名主の任命権については藩が所持しており、村から名主の適任者を目論(もくろみ)として提出させ、この中から藩が選んだ村推薦の初筆者(第一順位)が必ずしも任命されるわけではなかった。
八戸城下の町人が名主として選ばれる理由は、何であったろうか。村民が年貢を払えないと名主が才覚(工夫)して上納しなければならないので、少しでも資力のある町人の方が適任であったこと、藩への請願には城下に居住して計算能力のある商人の方が、藩との交渉に際して、何かと好都合であったことなどがあげられる。
名主の職掌は、村政の最高責任者として年貢の徴収をはじめとする、種々の業務を取り扱っていた。その中でも、最大なのは年貢や諸税金の徴収の仕事であった。年貢は村の連帯責任で納入したが、その村への割付は五人組単位で課された。村々で年貢の納入が遅れると、代官を所轄する勘定所へ名主が呼び出され、年貢が済むまで勘定所詰を申し付けられた。年貢や諸出金、ないし貸上金などが不作により納入ができない場合には、名主が才覚(工面)して納入したが、百姓たちも、町人から撰ばれる名主の資力をあてにしていたようである。明和二年正月十九日条八戸藩目付所日記によれば、貸上金の上納にあたって、百姓たちは「一統困窮之御百姓共故、差当上納之心当無御座候ニ付、何卒名主共才覚銭ヲ以上納仕度段、総百姓共名主江相頼候」として、百姓共が上納を名主へ依頼し名主の才覚銭によって上納したいと願い出ている。
名主の仕事は、年貢上納以外にも、飢饉で百姓が困窮しているときは、困窮の百姓を救済するために、塩釜無役などの諸上納の減免を浜山根名主が願い出ているし、困窮する浜通百姓四十人の名前を書き上げて、藩から味噌などの借用を願い出ている。天気が悪いと日和乞を願い出たし、漁事が少ないと漁乞願いを提出した。 このように、名主は村々の生活全般に配慮しなければならなかった。
ところで、名主が管理保管していた帳簿にはどのようなものがあったであろうか。大野村名主晴山吉三郎が保管していた帳簿には次の表2のようなものがあった。
大野名主保管の帳簿(表2)
項 目 | 帳 簿 名 | 石高・検地関係 | 本高帳、小高帳、御新田帳、明屋敷帳、給所高帳、 御検地野帳、地頭面付書 | 戸籍・職業関係 | 宗門帳、五人組帳、諸職人面付帳、雇御小者面付書 | 山林関係 | 御山帳、御山森判帳 | 備荒関係 | 御囲稗書上帳 | 宿駅・通信関係 | 伝馬割帳、下順番宿面付書、壱里判 | 鉄砲武器関係 | 猟師共拝借鉄砲書留帳 | 役人応接関係 | 郷村御役様前例御出迎書 | 勤務日誌関係 | 御用書留帳 | 土地台帳関係 | 役判帳 |
これらには、本高帳・給所高帳・小高帳といった村高や百姓持高関係、田畑の検地帳関係から、宗門帳・五人組帳・諸職人面付帳といった戸籍人別関係、さらに御山帳などの山林関係、凶作の備穀用の御囲稗書上帳関係があり、この他大野の駅場たる物資輸送を担った伝馬割帳関係や壱里飛脚の印判関係が常備されていた。名主の勤務日誌たる御用書留帳には、藩の指示や布令が書き留められおり、役判帳には永代売渡手形などの土地売買の異動を年代別に記録されていた。これらの帳簿が名主家に常備されていたことは、これが八戸藩の名主の職掌を物語るものであり、この有り様を通して八戸藩がいかにして郷村を掌握しようとしていたかを知ることもできる。
六 大下書と田屋 (1)代官御用留より見た大下書と田屋の職務、代官下代の任命 名主は村政の実務に携わっていたのに対して、大下書と田屋はどのような業務を行っていたのであろうか。前述した通り、大下書は各「通」に一人置かれ、田屋は、八戸廻などは名主の人数分、久慈・軽米通では一人の配置となつていた。これらの役職については、まだ未解明なことが多いので、文久二年(1862)の「八戸廻御代官御用留」(御用留と略記)と慶応二年(1866)の「久慈通御代官御用申継帳」(申継帳と略記)を手掛かりとして、これらの役職について考察 してみる。
代官所へ村々の百姓が願書を差し出すときは、一般的な事案は、百姓が名主へ願い出て、名主は大下書と連名して代官へ願い上げるのが普通であった。文久二年十月十二日条の田代村要助が願い上げた「濁酒仕込方願上」は、最初に名主平吉に願い出て、次に田代村要助と名主平吉、大下書徳五郎の連名をもって八戸廻代官両人へ願い出ている(御用留)。そして、代官より勘定頭の決裁を経て、許可・不許可が大下書へ申達されることになる。つまり、村からの願書は、名主と大下書の加印を経て代官へ上申され、決裁されたものは大下書を通して再び各村の名主へ伝達されるということになる。
ここでいう大下書は、訴願を代官に上げ、決裁を村へ下げるという仕事をしていることになる。いわば、藩と村との間に介在して下意上達、上意下達の事務手続をしていたことになろう。この例は、八戸廻の事例であるが、名久井通や長苗代通も八戸廻の村役人と同じ組織であったので、同じように大下書が代官所の取り次ぎを行っていたとみられる。
八戸廻などの大下書はこのような業務をしていたが、久慈通はどうであったろうか。申継帳を見ると、久慈通には「代官下代」という役職があった。この代官下代は、代官へ訴願が提出される前に、村々の訴願を受理して事前に審査し、審査を経たものを下代が末印して代官へ提出するという業務を行っていた。この役職は、文政二年(1819)に中野嘉右衛門が「代官下代」に召し出されて以来、中野家へ委任されたものである。その職権については、慶応元年(1865)四月九日条「中野作右衛門日記」によれば、親丈右衛門以来、大下書に連綿従事して功多しとして、慶応元年正月十五日に久慈代官下代に久慈八日町の中野賢蔵を任命したが、この時の申し渡しに、文政二年に中野募右衛門が下代となったときの如く、久慈通請願は下代宛に出させ、下代は末印をもって代官へ取り次ぐようにせよ、という指示があった。そして、従来勤めてきた大下書役は他の者にやらせ、その大下書をば手先と心得て自由に使い、願書が大下書より提出された場合は、とくと吟味し、許可が難しいものは自分限りにて返却してもよいし、願書に随意に加筆してもよいと達せられており、代官の下請け業務を下代は行っていたのである。
したがって、久慈通の諸願は、名主・大下書の連名で代官へ1上申するのではなく、代官下代の中野へ先ず提出することになっていた。慶応二年の小久慈村和吉の鮭鱒の御請金の口上書は、先ず願人の和吉より名主源兵衛へ願い出され、名主源兵衛と大下書兼田茂八の加印を経て中野賢蔵へ提出され、中野より「前書之通申出御座候」 として代官両人宛へ願い出されている。中野は願書の上申にあたっては、意見を添えることができた。
代官へ上申された願書については、久慈代官より八戸城中の勘定所へ直接送付されず、どうも久慈代官の決裁を受けると、中野より八戸にいる久慈田屋へ回送され、八戸の久慈田屋から勘定所へ上申する仕組みであったようである。申継帳に、「田屋を以て勘定頭へ差し出す」としばしば見えているのは、このような事情を示すものであろう。恐らく、久慈からの願書は、久慈田屋を経て八戸城中勤務の久慈代官の相役へ提出され、同役より勘定頭へ上申されていたと思われる(久慈代官二名のうち、一つ月交代で代官は久慈へ出仕したが、出仕しない相役は八戸城中で勤仕)。
勘定頭が決裁した村の願書は、八戸在中の代官を経て田屋より村へ「申達」された。申継帳八月二十三日条には、「勘定頭中被仰達、田屋ヲ以右之趣郷村へ申達」と見えている。郷村への申達ということは、久慈にいる大下書を通して名主へ伝達することであった。触書や達書が大下書所より名主に達せられ、これらが名主所より各村へ触れ回されている事例がしばしば史料に見えている。
したがって、右の事例のように久慈通の田屋は、村々からの願書を藩へ提出し、藩からの指示を村々の大下書や名主へ伝達するという業務をしていたことになる。この仕事は八戸廻や名久井通・長苗代通における大下書と同じ職務であったことになる。他「通」の大下書と同じ業務をしているのは、久慈の大下書は久慈より選出されて久慈に居住しており、八戸にいなかったので願書を取り次ぐ仕事はできなかったからである。
このような久慈通の田屋の役割は、軽米通でも同じであったと思われる。軽米通も、大下書は在郷者から選ばれ、田屋は八戸城下の商人が選ばれていた。 以上のように、代官御用留や申継帳によれば、八戸廻などの大下書と久慈・軽米の田屋は、村と藩との中間にあって、村々の願書を藩へ取り次ぎ、藩からの命令を村々へ伝達する業務に携わっていた。それは名主のように年貢割付・納入という対農民の仕事よりも、農民と藩をつなぐパイプ役、介添え役であったといえる。
(2)大下書の職務と選任
大下書は右のような代官業務の介添えだけをしていたわけではない。先に引用した「大下書庄屋名主勤方定目帳」に見られるように、名主を指揮監督して事案の解決や年貢納入、紛争の処理に力を発揮した。久慈通の例では、名主から諸上納金を受け取る業務もしたり、有家浦の串貝の定役金や椀飯役・漁船の礼金も受け取っていた。結局、この上納金は八戸にいる田屋を通して藩庫への納入されることになる。
大下書は各「通」一人の配置であり、一人で各「通」の行政全般を監督していたから、大下書には行政経験の豊富さが求められた。大下書の選任にあたっては、行政経験豊かな名主や田屋から選ばれる慣行となっていた。文久三年(1863)十二月二五日条の八戸藩勘定所日記には、大下書目論が掲載されており、名主や田屋の経験者が候補者に名を連ねていた。
このような行政実績のある者が大下書に選ばれたので、とりわけ任期については定めがあったわけではなかった。行政手腕が認められれば二十年近くもその職にとどまることがあった。天保二年(1840)四月二十一日条八戸藩勘定所日記には、八戸廻大下書忠蔵は文政三年(1820)以来二十年間大下書を勤め、苗字帯刀を許され、中村の苗字を名乗っている。二十年も勤仕できるということは、年貢納入などに責任を持つ名主などと違って対農民と直接緊張関係を持つ役職ではないということを示唆している。
また大下書が名主などから選出されるということは、名主よりも席次が上位であることになり、村の願書にも最末尾で署名していることからみても、村役人の中では最上位の地位にあった。大下書が上座であることは、安永五年(1776)九月二十一日条八戸藩勘定所日記に、大野村名主文四郎は名主役のときは大下書よりも下座であり、それ以外の役儀では上座であると指示されていることからも知られる。
(3)田屋の職務と独立上申権
田屋の役職はどうなつていただろうか。田屋とは一般に別荘などを意味する言葉として使われているが、ここでは八戸藩の村役人制度の田屋職のことを指している。前述のように田屋は代官への取り次ぎ業務をしていたのであるが、これに関連して久慈田屋の百姓願書の取り次ぎについて、次のような 興味深い史料 がある。
天保七年(1836)二月に久慈通田屋が死去したが、この時久慈通から提出された目論書は、百姓願書における田屋の加印について、「久慈田屋之義は先年之通諸願筋等有之候共、久慈郷中之儀ハ田屋限ニ而諸加印仕、久慈下役共江無間合取次差上候儀無之様奉願上候」と要望した。これに対して藩では、「加印筋ハ是迄之通急御用向等は加印致候様」と、指示した。 この史料解釈にあたり、森募兵衛『九戸地方史』上巻は「田屋は百姓と代官所との中間にあって百姓・庶民の訴訟・申状を取り扱う役目で、村名主の代官所大下書と同様の位置にあったが、村政にはあずからなかった。」、と述べ、「請願の処理にあたり下役に問い合わせず、独立上申権を持っていた。」と分析している。しかし、この目論書の趣意は、久慈通の請願には田屋限りで加印して取り次ぐことがないようにしてほしいということであり、藩でも加印は是迄の通り急用向のときに限ると回答しており、田屋が独立上申権を持っているということではないと考えられる。
田屋が独立上申権を持っているか否かを文久二年御用留と慶応二年申継帳によって見てみると、御用留には、田屋が単独で加印して請願を代官へ提出した例は一例もない。申継帳には、田屋の加印が見えるのは、七例あるが、いずれも田屋が職権として加印しているのではなく、大下書不在のために代行として加印しているのである。
したがって、田屋が村からの願書に単独判断をしてあたかも独立上申権を持って藩へ提出するということはありえないことになる。
このような取り次ぎ業務のほか、田屋は、年貢金や御用金の未納などがあった場合には、管轄の村人が城下に召還させられた際、「田屋詰」、あるいは「田屋預」として一時的に留置する場所にも使われることがあった。この田屋詰の制度は、早くからあったらしく、宝永七年(1710)には、すでに見えている。 文久二年御用留と慶応二年の申継帳から、田屋詰の例を拾うと、(イ). 御納戸金拝借不納者と田地払不納者に田屋詰を命ずる(文久二年五月七日条)、(ロ). 田屋詰者を本所(居住地)へ引き取らせる(同年閏八月八日条)、(ハ). 入牢者を病気治療のため田屋預かりにする(同年十二月二五日)、(ニ). 諸品の盗人を久慈田屋へ預ける(慶応二年十月二十三日条)(ホ). 久慈山口村の引付(捕縛)者を田屋へ預ける(同年十月二十五条)など七件であり、田屋詰の事例はそれほど多くはない。城下にいた田屋は、郷村の年貢未納という経済事犯や刑事犯を入牢するまでの間、一時的に留置する場所に使われていたのである。
(4)田屋の選任と任期
田屋の選出にあたっては、大下書のように名主から選ばれるという慣例はなかった。城下において願書を藩庁へ取り次ぐという業務や百姓を留置するという業務から考えて、田屋へ選出されるのは、八戸城下に住み、行政事務に優れている商人ということにならざるをえなかった。
田屋の任期については、久慈通では、当方は遠方なので八戸在住者を選んだ場合は、どれだけよく働いてくれるか見極める必要があるとして、前掲の天保七年二月十二日条の願書では、とりあえず三カ年を願い出ており、これが久慈通の慣例となり、久慈通の田屋は三年の任期が定着した。安政元年(1854)九月九日条八戸藩勘定所日記収録の久慈田屋目論に、久慈通遠方故に三年の任期と見えているのはこの事例である。他「通」における田屋の任期については分からない。
田屋の席次は、八戸廻などには名主の数に応じて田屋が配置されているから、名主の下位にあったと考えられる。天保七年二月の前掲願書に、久慈田屋を名主より上座にしてほしいと記されているが、藩では、普通の場合は、田屋は名主より下座であると明言しており、このことは田屋は名主より下座であるということを裏づけている。
七 おわりに
八戸藩の村役人である名主は村政全般にかかわる職務を遂行していたが、大下書や田屋は、村と藩との中間に位置して名主から出された村の願書を藩へ取り次ぎ、藩からの命令を村々へ伝達する業務を行っていた。しかし、それだけではなく、「大下書庄屋名主勤方定目帳」から知られるように、大下書は名主を指揮監督して事案の解決や年貢納入、紛争の処理に力を発揮した。また久慈通大下書は名主から諸上納金を受け取る業務もこなし、久慈通田屋は、他「通」の如く田屋詰とともに、八戸在住の利点を生かして年貢などを藩庫へ納入する実務も行っていた。しかし、これらの業務はあくまでも村政の直接的運営ではなく、それを遂行する名主を支えることが主眼であり、名主の職務が十全に発揮できるようにサポートすることにあったように思える。
八戸藩の村役人制度には、史料上の制約からまだ不明な点が多々ある。従来は、八戸藩日記などの藩庁史料を基本に解明が進められてきたが、代官御用留のように農村とかかわった地方行政官の史料や村藩行政を直接担った名主史料などの発掘が進展すれば、今後新たな知見を得ることが可能となる。代官御用留は種市町史の編纂過程で活字化されたものであり、晴山家文書や淵沢家文書は青森県史・八戸市史の編纂における資料収集によって見ることができるようになったものである。そういった意味では、県や市町村の史誌類編纂と刊行事業が、地方史の発展に大きな意義を持っているということになる。近年地方自治体の予算削減が市町村史の分野で顕在化しており、歴史解明の停滞が危倶される。
なお本稿では、八戸藩の村役人制度のみを論じたが、本来的には、他藩の村役人制度、中でも盛岡藩の村役人などを参考に議論しなければならなかった。とりわけ大下書は盛岡藩や仙台藩の大肝入、大庄屋などの制度と、どこが同じで、どこが違うかなどといったことにも論を進めなければならなかった。これらの究明は他日を期すこととし、今回は八戸藩の村役人に限定して述べたことをお断りしておく。
最後に本稿の掲載史料などから、八戸藩の村役人の組織系統を図表化すると、次のようになるであろうか。大下書や田屋の位置づけをどう考えるかによりその配置が変わってくるので、筆者がかつて執筆した『北海道・東北 藩史大事典』(1988年、雄山閣)や『下長の歴史』、および『種市町史』第六巻通史編上の掲載図とは若干異なつてくる。識者の御叱正を賜りたい。
八戸藩村役人の組織図 代 官─大下書┬名 主─乙 名─組 頭─百 姓 └田 屋
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