「南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上之事」の作成とその歴史的背景について 1
北上市立博物館長本堂寿一170709

      一付・豊臣秀吉朱印状の諸城破却令の実際?
         
  目 次
 はじめに
(1)「南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上之事」の概要 
       ■ 署判者と充(当)所について 
       ■ 信直の居城が埒外とされた理由
       ■ 本城候補の不来方と埒外とされた高水寺城の謎

 以下 次頁
       ■ 存置筆頭とされた烏谷崎城について
       ■ 志和・遠野・和賀・稗貫の南部領としての確定について
       ■ 北信愛の署判と「唐之供」の矛盾
       ■ 氏郷と信直の付き合い
       ■ 長政家臣内山助右衛門による館破却
       ■ 48城注文の存在と『祐清私記』
       ■ 48城注文が遅れて流布した謎
       ■ 破却から存置となった厨川城の謎
  (2)48ヶ城注文の写本系列とその内容について
  (3)破城と不破城はどのように選定されたか
  (4)発掘調査からみた破却の状況
  (5)奥羽仕置における天正18年と同19年の城わりの実際について
   おわりに



 はじめに

 「南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上之事」とは、天正20年(1592)6月11日付の南部領における城わり(破却)についての書上である。この史料は天正18年7月27日に南部信直(南部大膳大夫)が豊臣秀吉から与えられた朱印状に「一、家中之者共相抱諸城悉令破却、則妻子三戸江引寄可召置事」すなわち「家中の抱える諸城は悉く破却し、彼ら妻子は三戸に引寄せ召し置くこと」という厳命に対して実行された具体例として有名である【
)。ところが、この書上は城数48ヶ所(城)の内12ヶ所を残して破却したとする目録であり、三戸城以外すべて破却せよと理解されてきた秀吉朱印状のいわゆる一城令とは大きくかけ離れたものである。よって近年は、これは秀吉の城わり政策が大きく変化し、南部領においても不徹底に終った例証として評価の一致するところである【 】。秀吉とは、撫斬り令を発したり、全国の諸大名を総動員して明国の侵略を企てたりで、その馬鹿げた専制権力は歴史上特筆されてきた人物である。しかし、それをもってしても奥州における城わりを徹底できなかったことは興味深いことである。よってその権力に抗した背景を問うことは地域史を越えて意味あることだと言わねばならない。

 ところで、この史料について筆者は、以上のように南部信直が九戸一揆(九戸政実の反乱)平定後に秀吉の命令をようやく果たし得たとする評価に依拠してきた反面、伝えられたものの全ては原本の写しとされ、内容についても以下のように割り切れない点があり、史料としての信憑性についてはかねがね疑問を抱いてきた。

 その第1は、48ヶ所に対する存置12ヶ所という選択はどのようにして決定されたかということである。

 これらには当時の代表的城舘が多く含まれてはいるものの、南部領には在地領主層に応じた大小様々、主な集落の数はどに城舘は存在した筈である。確かに天正20年ともなれば奥羽再仕置も終わり、すでに空城となっていた例も多かったであろう。しかし、和賀・稗貫郡、そして九戸一揆に加担して、すでに持主が追放された城舘も破却の対象であったことは明らかである。よって当時の南部領に城舘が48ヶ所残存していたと見なすことはできない。すなわち「48」とは大小問わずそうした「数多」を意味するものと理解する。それでも書上げられた48ヶ所はどのように選定されたのか。そしてその4分の3の「36」は「破却」、残り4分の1の「12」は「不破」というが、はたして実数であったのか。信憑性に対する疑問はこうした数字の割り切り良さにある。実は後述のように、破城(破却)と不破城(存置)の数についてすべての写本は一致しておらず、その理由を不問にして活用されてきたのがこの史料の特色である。

 第2は、はたして以上のような数字合わせのような城わりが豊臣政権から公的に認可され得たかということである。城わり令が大きく変化した結果であるとするならば、先の朱印状に示された破却令とは一体何であったのか。天正20年とは、その厳命を政権自らが反故としたように新たな居城として福岡城(九戸城)を信直に預けて以後のことである。しかも秀吉はそれまで浅野勢が駐留した和賀・稗貫郡を南部領として認め、信直にとってこの方面の支配体制を急務とした年代である【 】。それにも関わらず朝鮮出兵で本人不在の年である。こうした展開に目を転じれば、この書上は先の朱印状で示された破却令と間接的に結びつくとしても、直接的には「城わり奉行」への結果報告であり、領主不在の領内統治においても片付けて置かねばならない内部的問題ではなかったかという疑問である。

 48ヶ城の内、当地和賀郡で破却されたというのは鬼柳城・二子城・岩崎城・江釣子城・安俵城の5ヶ城であり、すでに旧主の居ない城舘跡である。これら以外で規模ある城舘跡は煤孫城・黒岩城・笹間舘などあり、また西和賀では、沢内の太田舘跡、東和賀では毒沢城跡などが存在した。こうした対象外となった城舘の多さは稗貫・紫波郡以北でも同様である。よって本論は、南部領内に12ヶ城が残されたと解釈されてきた「南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上之事」とはどのような性質の文書であったかということについて、関係史料を再読し、城舘跡の発掘調査事例を加えて再点検しようとするものである。(各城名については「跡」を省略とする。また文章中の城郭・城舘は同意である。江戸時代の編纂記録類については南部叢書刊行会『南部叢書』(二冊)(昭和45年)の「南部根元記」「奥南旧指録」「聞老遣事」、同三冊(昭和45年)の「祐清私記」「奥南盛風記」などを引用とする。また「南部大膳大夫分国之内諾城破却共書上之事」の各写しについては盛岡市の工藤利悦氏から提供を受けたものが中心である。)

(1)「南部大勝大夫分国之内諸城破却共書上之事」の概要

 本稿では「南部大膳大夫分国之内諾城破却共書上之事」を「48ヶ城注文」と略称する。この原本(底本)は伝わらず、いずれも江戸時代の写本である。盛岡市の工藤利悦氏(近世こもんじょ書舘主宰)の御教示によるとその数は盛岡藩関係編纂物だけで8?9例は存在するとのことである。そのためか、「城数四十八所、此内不破城十ニヶ所」という末文はいずれもほぼ正しく書写されているものの、「はじめに」で述べたように破城と不破城の数は一致せず、どれが原本に近いか不明の状態である。これについて小稿は後述のように『篤焉家訓』(盛岡中央公民館蔵)の箇条書きタイプをそれにより近いと見る。しかしここでは一般的に流布している『聞老遣事』の列記タイプを『青森県史』資料編・中世?(平成16年)から転載し、まず48ヶ城注文の概要と、その作成に至る奥羽再仕置当時の状況について振り返って見たい。なお『聞老遺事』の「48ヶ城注文」でも注意したいことは、その末文に48ヶ城の内不破城12ヵ所とあるものの、その実数は破城38ヶ所、不破城10ヶ所だということである(『聞老遺事』系統異本に「洞内」を加えて不破城11ヶ所とする例もある)。


   南部大膳大夫分団之内諸城破却共書上之事

南部之内稗貫郡 鳥谷崎  平城  南部主馬持分
南部之内和賀郡 鬼 柳  平城被(却)南部主馬持分  代官鬼柳源四郎
 同      二 子  平城破 南部主馬持分    代官川村左衛門四郎
 同      山 崎  山城破 信直抱       代官藤四郎
 同      江釣子  平城破 信直抱       代官川村与三郎
 同      安 俵  平城破 信直抱       代官中野修理
稗貫郡之内   十二丁目 平城破 寺崎縫殿助持分
 同      寺 林  平城破 信直抱       代官左平治
 同      新 堀  山城  江刺兵庫持分
 同      大 迫  山城破 信直抱       代官九日町十郎兵衛
志和郡之内   片 寄  山城破 中野修理持分
 同      肥 爪  平城破 信直抱       代官川村中務
 同      見 舞  平地破 信直抱       代官日戸内膳
 同      長 岡  平地破 南部東膳助持分
 同      乙 部  平地破 福士右衛門持分
岩手郡之内   不来方  平城  福士彦三郎持分
 同      厨 川  平地破 工藤兵部少輔持分
 同      下 田  平地破 川村中務持分
 同      沼宮内  山城破 川村治部少輔持分
 同      滴 石  平地破 信直抱       代官八日町兵太郎
 同      一方井  山城被 安保孫三郎持分
糠部郡之内   姉 帯  山城破 野田甚五郎持分
 同      一 戸  平地被 信直抱       代官石井新(信)助
 同      葛 巻  山城破 工藤掃部助持分
閉伊郡之内  増 沢  山城  浅沼忠次郎持分
 同      横 田  山城破 信直抱       代官九戸左馬助唐之供
 同      板 沢  山城被 浅沼藤次郎持分
 同      千 徳  山城破 一戸孫三郎持分     唐之供留守甲斐守
 同      田 鍍  山城破 佐々木十郎左衛門持分  唐之供留守兵庫
糠部郡之内   野 田  山城破 一戸掃部助持分     唐之供留守息角蔵
 同      久 慈  山城破 信直抱       代官久慈修理
 同      種 市  山城破 久慈孫三郎持分
 同      古軽米  山城破 古左衛門佐
 同      金田一  平城破 信直抱       代官木村杢尉  
 同      三 戸  平地  信直留守居甲斐守
 同      名久井  平地  南部中務持分      唐之供留守彦七郎
 同      剣 吉  平地  南部左衛門尉持分    唐之供留守彦八郎
 同      毛馬内  山城  南部大学持分
 同      花 輪  山城  大光寺左衛門佐持分
 同      浄法寺  山城破 畠山修理持分
 同      櫛 引  平地破 信直抱       代官桜庭将監
 同      八 戸  平地破 南部彦次郎持分     唐之供名代弥十郎
 同      中 市  平地破 小笠原弥九郎持分
 同      新 田  平地破 南部彦七郎持分
 同      沢 田  平地破 恵比奈左近持分
 同      洞 内  平地破 佐藤将監持分
 同      七 戸  平地破 信直抱       代官横沢左近
 同      野辺地  山城  七戸将監持分      唐之供留守左近
城数四十八ヶ所、此内不破城十二ヶ所、右此外於(猶)諸城有之者、此判形之者共江可被加御成敗者也
                     南部主馬助 直愛
   天正廿年六月十一日         中野修理  直康
                     南部膳助  直重
                     南部彦七郎 正永
                     南部左衛門尉信愛
                     南部帯刀助 義実
                     八戸彦次郎 直栄
                     南 右馬助 正慶
  速見勝左衛門殿
  乾 源太郎殿
 考、此に唐之供トアルハ、豊臣太閤朝鮮征伐ノ時、信直公今年三月十七日、伊達政宗・上杉
   景勝・佐竹義宣ト徳河神君に従テ京師ヲ発シ、肥前名護屋に到り玉フ故に、唐 ノ供卜
   為ス者ナラン

注釈


 ■ 署判者と充(当)所について 

 以上のように48ヶ城注文の署名据判者は、南部家一門の重臣8名(南部主馬助直愛一鳥谷崎城主・中野修理直康一片寄城主・南部(東)膳助直重一長岡城主・南部彦七郎正永一新井田(新田)城主・南部左衛門尉信愛一剣吉城主・南部帯刀助義実一不明・八戸彦次郎直栄一八戸城主・南(部)右馬助正慶一浅水舘主である(以上は『岩手県史』第3巻(昭和36年)による。( )は上記署名者の文字と『岩手県史』の文字の違い。ところが以上の花押の実例を伝えたものは『篤焉家訓』のみであり、後述のように天正20年に揃って明朝体である(注4)。一方、同県史第5巻近世編(昭和38年)では彦七郎正永を東氏とし、名久井城主で南部中務家と同家とする。そして南部帯刀義実を楢山氏(一戸町に楢山舘跡あり)とする。また『紫波町史』(昭和47年)は南部東膳助直重を石亀氏とする。

 署判の説明は後述とし、48ヶ城注文が作成されたのは、年号に従えば、それは信直が朝鮮出兵で肥前名護屋に出張中(天正20年正月唐入出動の命を受ける。同20年3月17目前田利家隊に属して京都出発。12月8日文禄と改元される。翌2年11月帰国)のことである。当時、嫡子彦九郎利正(後の利直)は18歳であったが、留守中の国政を執ったと伝えられ、内部的な事は小笠原美濃、外部的なことは楢山帯刀佐義実と相談して決定したという(『岩手県史』第5巻)その義実は48ヶ城注文署判者の一人である。すなわち利正が国政に当ったと伝えても、当時は未だ若年である。したがって48ヶ城注文は「右此外於諸城有之者、此判形之者共江可被加御成敗者也」とあるように、家老クラス連署によるものである。このことから信直留守中は譜代(家老)による合議制であったということになり、南部藩における家老体制のはじまり(『岩手県史』)と評価される所以である。

 充所の「速見勝左衛門」について確とした素性は不明である。しかし、史料の限りでは『氏郷記』登場の奥羽仕置時の蒲生軍十番備え七番弓鉄砲頭八人の一人、同じく再仕置時の十三番備え十番弓鉄砲組八人の一人「速水勝左衛門」(『会津若松史2・築かれた会津』昭和40年)と同人と認めざるを得ない。すなわち蒲生氏郷家中の一人である。一方「乾 源太郎」についても素性不明である。『氏郷記』にも見当たらない。しかし速見との連名から同じく天正20年における蒲生側の仕置奉行であった可能性が高い。文書記載形式からすれば「速見勝左衛門」より「乾 源太郎」は上位であるが、豊臣政権からすれば蒲生氏郷配下の又代官に過ぎない。

 『岩手県史』第3巻は充所の速見と乾について、二人を氏郷の配下らしいとしながらも「秀吉指命を奉行するもの」、または「秀吉政権の奉行」として評価している。こうした高い評価は、この書上を天正18年の信直に対する朱印状の破却令に対する実行行為と認めればこそのことである。しかし天正20年(文禄元年)6月は、中央からの仕置軍が撤退して時久しく、国中は朝鮮出兵(文禄の役)の最中である。遡って天正19年暮れの残留隊は後述のように蒲生勢と浅野勢であり、中でも主力は蒲生勢であった。その指揮監督は蒲生氏郷と軍監浅野長政(慶長3年以前は長吉。本稿では通例に応じて長政とする)である。したがってこれら仕置軍帰還後の文書効力は書式どおり蒲生側代官に提出したことに留まるものであり、中央政権の指令に基づいたものではないと言わねばならない。とはいっても速見氏・乾氏から氏郷に届くわけであり、南部側は当然に城わりの責任者であった氏郷に対して報告したということになる。

以上の経緯からしてこの目録の提出は前もって氏郷に指示されていたと見るべきである。加えて氏郷と信直の付き合いからすれば、48ヶ所の内12ヵ所といった城数選択の「知恵」も、後述のように氏郷の助言によったと推測せざるを得ない。


 ■ 信直の居城が埒外とされた理由

 48ヶ城注文で注意されることは、「破却」は廃城であるか、「不破」は存置であるか、代官派遣以外の「持分」はその人物の知行所をさすかなど、それぞれの内容が限定されていないことである。常識的には「破却」は廃城で、「不破」は存置、「持分」は知行所であり、存置はその「持城」ということになる。しかし、その「存置」を地方知行制として見れば地域的煽りが認められ、慶長年間以降の支配体制とは大きく異なっていることは明らかである。

 一方、48ヶ城注文の内、12ヵ所存置を南部領における本城支城体制として評価した場合、信直の居城となった「福岡城」(九戸城)が含まれていない。これについては実際の存置は13ヶ城(『岩手県史』第5巻)であるとされ、12ヵ所存置との関わりについてこれまであまり問題とされてこなかった。すなわち福岡城が12ヶ城の存置数に含まれないのは信直の居城として豊臣政権がすでに公認していたためと理解されてきた。しかし、福岡城については氏郷が修復監督に当たったわけであり、その点では48ヶ城注文では氏郷承知として埒外にしたとすれば問題はない。もし「存置」について中央政権への報告が本来であれば、福岡城がその権力から預けられた居城だからといって埒外にできたとは考えがたい。このことについては本城の三戸城も同様である。すなわち「三戸 平地 信直留守居甲斐守」は本城三戸城ではなく、「本三戸城」(聖寿寺館)だということである。本城三戸城こそ秀吉自ら認めた信直の居城であり、誰もが周知の城郭である。さらにそこは南部領を代表した「山城」である。よって「平地」と記されたことは本城の「三戸城」を示すことにはならず、本城の三戸城も福岡城と同じく48ヶ城注文の埒外に置かれたということになる。このように信直の本城と居城を埒外にしたということは、この注文は秀吉政権に指令された仕置の任務遂行として氏郷側の証拠となるものであり、南部側は氏郷の指令に対する城わりの結果報告として作成したということになる。


 ■ 本城候補の不釆方と埒外とされた高水寺城の謎

 一方、破城36ヶ所・不破城12ヶ所の異体的選定は、信直が名護屋在陣中に家臣たちが決定したとは当然認めがたい。情勢から判断すれば、名護屋出陣前(天正19年中)に少なくとも主な家臣への所領配分は決定され、その統治の必要から存置については信直自身が認知したものであろう。ところが、当時は天正18年の朱印状に明記された破却令の原則は触れ、自分仕置がある程度認められるに至った段階にあったとは言え、その存置は正式に認可されるとは限らなかった筈である。したがって48ヶ城注文とは、一つは天正18年の朱印状の破却令に対する対応、一つは領内統治に向けた支城体制としての思惑を含む暫定的ものと推測される。例えば、浅野長政(長吉)から将来の本城としてお墨付きを受けた不来方城(後の盛岡城)をさりげなく存置とし、斯波氏の高水寺城(日詰の城山)は48ヶ城の埒外としたことなどは信直の指示によると考えざるを得ない。48ヶ城注文には「肥爪 平城破」とあり、肥爪舘は高水寺城とは同地であるが、山城の高水寺城に当らないことは言うまでもない。

 後述のように奥羽再仕置における惣奉行浅野長政は九戸一揆を平定し、その首謀者(九戸政実等)達を連行して天正19年9月8日に帰還となった。その時、信直は鳥谷ヶ崎(花巻)まで長政を見送り、途中、不来方を居城とすることを推奨されたという(『祐清私記』「盛岡築城之事」)。その時、信直は居城を不来方か高水寺城(紫波)のどちらかにしたいと思っていたことを長政に披露したと伝えられている。

 以上のように信直が自ら居城にしたいと申し述べた高水寺城とは、信直新領地である北上平野最大の城郭であり、本城三戸城とよく似た地形の山城である。北上川を要害にして平野中央に位置し、しかも斯波御所と呼ばれた由緒ある城郭である。しかし、信直自ら滅ぼした斯波氏の本城であり、豊臣政権に対する惣無事令達反を喚起させかねない代物である。志和郡は一般的に豊臣秀吉朱印状の「南部七郡」(詳細は注3を参照のこと)に含まれていたとされるが、不安定要素としてこの惣無事令達反の蒸し返しも否定し得ない。長政はそれを思いやってか、新しい築城思想からか、高水寺への築城は往々のこととし、まず不来方を在城とすることを薦め、自ら現地を踏んで縄張りまで指図したと伝えられている。後、これが繊豊城館の構造形式を継承した(室野秀文「盛岡城の構造と特質一内曲輪の縄張りをめぐって」『岩手考古学』第4号・1992)とされる盛岡城である。

 九戸城を繊豊系城舘に手直しした氏郷も長政と同じく新しい築城の理に適ったこの不来方を推奨したと一般的に考えられている。しかし氏郷についてはそれを例証する記録も不明である。不来方は九戸一揆平定の折、氏郷他四武将の宿営した地であり、伝馬継所でもあった(『岩手県史』第5巻)。しかし当時の仕置軍が不来方について信直の本領としてどの程度承知していたかが問題である。やはり不来方の本城化についてはその後における長政の働きが大きく、実現もそれが伏線にあったことはその後の動向にも辿ることが可能である。

 前述の『祐清私記』によると、盛岡城築城の鍬初めは天正19年に遅れて慶長2年(近年は慶長3年?1598年説が有力。『岩手県の歴史』山川出版社1999年)であり、その築城縄張りの地割奉行は前田利家の旧家臣内堀伊豆であり、南部利直(利正)による縄張りとされている。利直に花を持たせた伝記であろうが、それだけに父信直不在中の天正20年の城わり(48ヶ城注文)において城好きの利直も関心があったのではないかと思われる。しかし48ヶ城注文に利直は前述のように介在していない。

 近世の築城は一般に山城から平城へと変化したと説かれるが、高水寺城は後、郡山城と改称されて中野修理直康(康実)の二男正康(中野吉兵衛)が城代となり、やがて盛岡城築城の宿舘となり、初代藩主(第27代)南部利直が居住するという経過を辿った(『岩手県史』第3巻)。一方、『紫波町史』は郡山城の48ヶ城注文からの埒外は不審とし、『南部史要』が伝えたように康実は郡山郡代であり、常には郡山城の一郭である中野館に居住したと見る。また同誌によると利直が郡山城を宿舘としたのは盛岡築城(慶長2年)と同時で、慶長6年に乙部長蔵が普請奉行として改築し、時経て寛永3年(1626)に幕府の許可を得て再び移り、盛岡城完成の寛永12年まで居城としたという。

 以上のように高水寺城は信直には捨て置けない思惑の城郭であったことは確かである。それ故に逆に48ヶ城注文から埒外にしたということも考えられるわけで、中野修理直康が天正19年にすでに城代であったとすればますます問題である。確かに郡府ともいうべき高水寺減が信直によって天正16年に攻め落とされ、そのまま無住の地であったとは考えがたい。その守備を誰かが担ったとすれば、それまでの経緯からやはり中野直康こそ妥当である。そうした高水寺城をそのままにして48ヶ城の埒外としたことは確かであり、このことは天正19年の長政の忠告に従ったと見るべきであろう。次頁へ


一覧にもどる