寛永13年南部重直 参勤交代遅参事件の再検討
盛岡大学学長 加藤 章  盛岡大学紀要 第23号 2006

1.問題の所在

 戦後の近世史研究は幕藩体制論として、封建支配の体制と社会の経済的基礎構造を一体的に把握することをめざした。その成果は、石高制と兵農分離制という国家と社会を貫く原理を導きだすことに成功したことである。さらに1970年代に幕藩制国家論へと展開したが、国内体制と結びつく、いわゆる「鎖国制」研究の深まりとともに世界史的視点を入れた近世国家史の概念がその後の研究に大きな影響を与え、東アジアの「海禁」との関係から「鎖国」を説明したり、近世主従制をアジアの君臣関係と通ずるものとみる見方もあらわれた。【



 このような研究動向の中で、幕藩権力を集権的封建権力ととらえる場合、幕府に対する大名・藩の権力構造をどうとらえるかが問題であった。江戸初期幕府・将軍と有力国持外様大名との関係の重要性については、これまでの幕藩体制論のもとでは格別注目されてこなかった。というより強大化する将軍権力の前に外様大名は勿論のこと譜代大名でさえも、たえざる危機感をもって藩政の充実につとめ、幕府の機微に触れることを警戒していたとみていたのである。さらに、幕藩制国家の中で大名の藩政がもつ自立性・独自性をどこまで認めうるか、それは藩政史研究の課題でもあったが、幕府権力が中期以降に強化されることと同時に藩の自立と藩国家化が進むとみる見方も生じた。「藩とは何か」があらためて問われ続けている。【

 とくに大名藩の中でもいわゆる有力な国持外様大名のあり方が注目され、その領国支配には基本的には幕府は不介入とされ、国持大名諸家で構成される大広間席留守居組合が幕令を阻止するほどの政治力をもっていたと評価する見方もあらわれ、国持外様大名の藩権力構造の再検討が求められている。【

 しかし最近の研究たとえば熊本藩主細川忠興・忠利父子のほぼ完全に残されたという往復書簡2900通余を分析した山本博文氏は、熊本藩の細川氏が将軍の動向は勿論のこと江戸城大広間の諸大名の情報の収集につとめたこと。とくに大名に対して絶大な権力をもった幕府年寄(のちの老中)と将軍の関係には特に関心をはらい、それにつながる人脈の形成に細川氏自身が力を入れていたことを明らかにした。【 】これらは個々の大名の史料が不足しているものの江戸初期17世紀幕藩関係が確立しようとする時期において細川氏のみならず、ほとんど全ての国持外様大名にとって自らの家と藩領の維持存続のために不可欠の行動であったと思われる。つまり幕藩初期国持大名の有する一定の自立性を認めようとする研究である。これは幕藩制成立期において強大な将軍権力が確立されたとする見解に対する批判でもあり重大な問題提起であった。

 この藩と幕府の相互関係のなかで合意が成立し公儀を形成するところに幕藩制約秩序が成り立っていくのである。奥羽の地に領国支配を確立した南部信直、利直、二代が築いた南部氏の藩政は、秀吉政権から徳川政権へ移行する間に領内権力斗争を克服して比較的順調な支配を続けることができたといえよう。

 しかし、南部氏による藩政確立の時期をどこにするかは未だ定説を得たとは言い難いが、それは藩政の基礎構造すなわち農民支配体制の全般的成立とともに藩政を主導した三代目藩主南部重直の政策についての評価が定まっていないこととも関連している。【

 それは全国的な藩政確立期の問題について朝尾直弘氏が指摘したように、寛永期と寛文期以降との間の区別が十分にできていない研究状況、つまり幕府と藩との間の政治史的研究の不足があげられる。盛岡藩についてもこれまでの通史的理解やその根拠となった編さん史料に対する再検討が進みつつある。【 】また特筆すべきは最近の「青森県史」をめぐる編さん事業が発掘した新しい史料を含む、資料編の「近世1・近世北奥の成立と北方世界」(2001)および「近世4・南部1盛岡藩領」(2003)【 】があげられる。藩政のみならず広く幕藩関係の中で盛岡藩をとらえようとする視点から史料が収集整理されている。本論に直接関わる同時代資料編「近世1」は「江戸幕府日記」(姫路本)から、津軽氏、南部氏に関連する事項を収集しており、初期幕藩関係に関わる史料として貴重なものであり、そこから多くの新知見を得ることができる。

 本論はこのような新史料に基づく新しい研究に学びつつ、これまでの南部氏による初期盛岡藩政の再検討を南部重直の参勤交代遅参事件を中心に試みようとするものである。


 2.寛永期における南部重直と幕藩関係

 南部氏による藩政確立過程については、これまで幕藩体制論の立場から検討を試みてきた。【 】しかし最近の新史料による大名藩研究の成果に学んで、旧族居付国持外様大名としての立場から南部氏の再検討が必要となっている。とくに近世初頭17世紀において南部氏はその存続に関わる重大な危機に2度も直面した。1つは寛永13(1636)年における参勤交代の遅参により藩主重直が逼塞の処分をうけた事件。もう1つは寛文4(1664)年藩主の死去にともなう相続をめぐる家臣団の対立と八戸分地事件である。【 】そのいずれもが三代藩主の重直に関わるものであったことと、この2つの事件を乗りこえることなしには外様大名としての盛岡南部藩がいわゆる幕藩制的秩序の中に安定した地位を得ることができなかったとさえいえるのである。とくに前者つまり藩主逼塞事件は、後者の寛文分地事件にくらべ、これまで深く追求されることなく、藩主重直の不名誉な事件として扱われてきた。しかし、この事件は寛永13年という幕藩制確立にとって重要な時期に生じた武家諸法度違反であったことに注目しなければならない。

 南部重直は、二代藩主利直の三男として、慶長11(1606)年、江戸桜田の屋敷に生まれた。慶長17(1612)年将軍秀忠が南部邸に来駕の際、重直7歳で拝謁している。元和4年12月、13歳で従五位下山城守に任ぜられ、15歳の元和9(1623)年父利直とともに将軍家光の将軍宣下による上洛に供奉し、京都で加冠の礼をあげた。烏帽子親は家康の孫松平出羽守直政であったという。また直政の兄松平伊豫守忠昌(当時越後高田25万石城主のち越前へ)より元服の祝儀として贈られた赤長革をかぶせた小袖入挟箱は以後常時使用することとなった。寛永3(1626)年9月6日には父利直は従四位に昇進し、重直を引きつれて将軍家光の上洛参内に父子ともに騎馬をもって供奉している。【

 さらに重直は、寛永8年に大御所秀忠の江戸城の紅葉山への社参に正月と4月の2度供奉しているが、この場合は従四位下の父利直に代って参拝していたと考えられ、それは従五位下の重直に対して南部家十万石の領知高を重視した特別の待遇であった。そのことからも江戸城内の南部家の処遇は他大名にくらべ比較的重い待遇といえる。【 】「寛永江戸図」【 】には南部信濃守と山城守が、それぞれ拝領した2つの上屋敷が記されていたこともそれを裏付けている。寛永8年12月将軍秀忠の重態の報に南部利直は急拠江戸に赴き大御所を見舞ったが、翌9年正月秀忠が53歳で死去、その年8月には利直も後を追うように57歳をもって江戸桜田屋敷で死去した。

 利直は徳川家康と秀忠からの信頼が厚く、特に家康からは11子に当る水戸の徳川頼房の教育を依託されていた。そのため江戸や駿府に赴くときは必ず水戸に立ち寄って様子を伺っており、その後も親しい関係が続いている。【

 このように南部利直と徳川将軍との関係は十万石の格式をこえて親しいものがあった。寛永9(1632)年10月、重直が26歳で藩主となったが、これまでみたように江戸の藩邸で育った重直は父利直の側にあって、初期藩政および将軍・幕閣との関係について身をもって学ぶ機会が多かったといえよう。

 ここで当時の幕府政治の状況を見ておこう。重直の襲封と、ほぼ同時期に秀忠の大御所政治が終りをつげ、生まれながらの将軍としての家光の親政が始まった。それは大御所時代からの土井利勝、酒井忠勝ら年寄たちにとっては家光の強硬な態度は恐怖であったという。【 】それが政務の渋滞を生みだし、このことは大名たちにとって不都合なことであったことが細川家文書から知られている。【 】その中で家光は秀忠の出頭人体制から、家光独自の軍団の再編をはかり松平信綱、阿部忠秋さらに太田資宗、阿部重次らが小姓組番頭に任じられ、堀田正盛、三浦正次を加えた「六人衆」(後の若年寄)が成立し、それはいわば将軍の親衛隊であった。幕政運営のルールは寛永10年代に入って整備される政治組織、すなわち老中以下の諸役人の職務内容、権限が明確になり評定所式目も制定され機能分化がすすめられた。それはそれ以前の駿府政権や秀忠政権の出頭人中心の政治と大きく違って、いわば基本的に譜代の合議制のルールに基づく「幕藩官僚制」【 】である。幕政は格段に迅速化したことが知られる。有力外様大名に対し家康や秀忠は、かつては秀吉政権下の同僚でもあった立場を慮り、彼らの参勤に際し、鷹狩に託して品川辺りまで迎えに出ることが少なくなかったという。しかし、家光はちがっていた。彼は譜代合議制と将軍権力とをもって相互補完関係にある新しい公儀権力をめざし、外様大名に対し、新たな主従関係を構築しようとしたのである。

 つぎに幕府と盛岡藩の関係をみておこう。寛永11(1634)年3月南部重直は参勤の目見えをしているが、5月には津軽信吉、松前公広らとともに江戸城黒書院にて家光の上洛参内の先鋒を命ぜられ、7月18日華やかな供奉行列の右手7番目を占めている。【 】この家光上洛の軍勢は総勢30万といわれ、前年の改訂軍役令による大動員であったが、これは家光政権の全国への大デモストレーションであった。

 なおこの年の夏、重直の留守中の盛岡城に落雷があり、火薬庫の爆発で本丸に延焼し大きな損害があったが翌12年12月修理完了し、その際に旧城福岡からの木材で城の西側に新邸を作った。【 】再建の早さにみるように、当時の藩財政の豊かさは領内の膨大な産金によるものであった。

 さらに同12年閏7月南部重直は幕府奉行衆から領内郷村の高目録作成と献上を命ぜられ、同年8月4日には、同日付の家光の領知判物10郡十万石の判物が与えられた。【 】これは秀吉以来はじめての徳川将軍と大名との明確な主従関係の確認であり、幕初以来、大名の改易・転封の相次ぐ中で幕藩制秩序における官職以上の実質的所領安堵の保証として重要な意義をもつものである。以後、将軍新任時の恒例となった。

 家光による諸大名との主従関係の確認に加え、寛永12年には朝鮮の国書をめぐる対馬藩柳川一件の解決のあと、家光とその年寄衆が頻繁に会議を開いて練り上げ、林道春兄弟が書き上げたものが寛永12年の改訂、武家諸法度である。寛永12年6月21日尾紀水の御三家をはじめ諸大名は全員登城を命ぜられた。大広間において井伊直孝、松平忠明、酒井忠世、土井利勝、酒井忠勝ら年寄衆が揃って新たな武家諸法度が仰出される旨を伝え、林道春(羅山)が中央にでてこれを読み上げた。【

 その後で将軍家光が登場して諸大名を前に自らの言葉で語ったという内容が注目される。いわく「是迄諸大名の誓詞をめさるゝ例なりといへども、各忠勤既に三朝を歴て怠らざるが故、当代には誓詞を御覧ずるに及ばず。」【 】つまり、本来は法度に対する大名一人一人の誓詞をとるべきところだが、諸大名はもはや三代に仕え疑わしいとも思っていないので起請文は不要である。つまり将軍権力の優越性を諸大名に対して強調したのである。さらに、言葉を続けて「何も如存知御直子無御座候。明日にも誰々ニよらす被成御養子候か、又其内御大事も御座候ハゝ御遺言ニも可被仰置候、此儀可相守由被仰出」【 】と後継者についての率直な考えを示している点も大名たちを信頼してのことであろう。ここまで言い切れることは外様大名といえども譜代なみの扱いをされており、しかも細川家や毛利・黒田・藤堂の諸家など国持大名クラスでも譜代なみに召し使われることを名誉と感じる大名も出現しているほど将軍と大名の関係が変化していた。【 】しかしその反面、当時の大名の間では家康以来、三代の間に身近にいかに多くの改易大名が生まれたかを知るだけに、気になる行動をとる時には必ず年寄の指示をあおぐ体質が生まれていたという。【 】その上での寛永12年武家諸法度は、第二条に「大名小名在江戸交替所相定也。毎歳夏四月中可到参観。従者之月数近来甚多。且国郡之費。且人民之労也。向後以相応可減少之。但上洛之節は任教令。公役は可随分限事。」と示されるように、参勤交代の制度化が寛永武家諸法度の最大の特色である。【

 そこでは「大名、小名」とともに「諸国主井領主等」(七条)さらに「国主、城主、壱万石以上并近習、物頭」(八条)というように明確に万石以上の大名、国主および将軍の近臣、直属軍団幹部が登場した。そこでは万石以上を原則として武家と認定し、将軍家だけは万石以下でも「近習・物頭」をふくむとし、それが徳川将軍家の「公儀」権力の内実を示すことになった。つまり家門・譜代大名のみに依存せず将軍家の「家中」たる「近習・物頭」をとりこんで将軍権力を強化することを明らかにしたのである。【 】すでに寛永11年8月には譜代大名の妻子をすべて江戸住まいを命じている。さらに参勤交代の制度化によってあたかも武士の城下町集中の如く諸大名の在江戸が義務づけられた。

 しかも同年6月晦日には白書院にあらためて外様大名が呼びだされ「当年御暇之衆」39名、「当年在江戸之歴々」61名の区分が言い渡された。【 】「徳川実紀」は「これ大名4月交替の始なり」と特筆している。【 】南部重直は早速に、佐竹義隆・上杉定勝・北条氏重とともに帰国の暇を賜った。【 】このような大々的な寛永武家諸法度発布の儀式はそれ以前の自由な参勤と異なり【 】家光の諸大名とくに外様大名に対する新公儀体制の成立を明確にし、それへの忠実な服従を期待してのことであったことはいうまでもない。

 寛永13年はその新体制のもとでの初めて東国大名の江戸参勤の年にあたっていた。それにもかかわらず、同年正月8日家光は江戸城の升形・石垣の工事を西国大名に、江戸赤坂椛町市谷等の堀土手普請を東国大名に命じた。南部重直は加藤明成組に編成され、市ヶ谷の土橋堀普請を分担し、楢山五左衛門・毛馬内左京を奉行とする37名の家臣と同心衆と歩行衆計100名を江戸に送り込んだ。工事は2月から7月までかかっている。【

 さらに前年9月キリシタン禁制が全国に再び公布されたことを受けて、南部領においても寛永13年3月までに176名に及ぶ領内各層のキリシタンが摘発され、90名が成敗されている。【

 このようなあわただしくきびしい情勢の中を重直は3月21日盛岡を発し、参勤の途についた。【 】本来、参勤行列の出立日と到着日は幕府の厳しい管理と統制の元におかれていた。まずは江戸から国元に帰る場合も、幕府老中に「御暇願い」を提出し、その許可が必要であった。また国元を出立して江戸に到着する日についても、幕府への届出・許可を受けることが義務付けられ、その日程に変更を生じ延期や遅延する場合も必ず事前に届出する必要があったのである。【

 南部重直の場合、武家諸法度の規定通りに旧暦4月(現5月頃)江戸に到着するためには、3月下旬に盛岡を出発、4月上旬に江戸着となる。盛岡では桜が咲き田植も始まろうとする時期である。奥州街道の盛岡・江戸間の距離は139里35丁(約556キロ)をおよそ12泊13日が基準であり、1日の行程は40〜45キロ、日によって50キロに及ぶ徒歩の旅であった。十万石の盛岡藩の格式では馬上15〜20騎足軽80人中間人足140〜150人の計240人程度の大行列であった。【



 3.重直の参勤遅参による逼塞処分

 重直の江戸到着前後の幕府の動きを「南部史要」はつぎのように記している。【 】まず江戸到着は4月12日【 】であるが幕府は直ちに南部家の重臣石井伊賀守をよびつけ、七ヶ条にわたる詰問があった。「(1)この度の参勤日数延引に及ぶこと。(2)先年諸国切支丹詮議の時、東国にて南部領に切支丹のもの最も多かりしこと。(3)出丸を建築して披露もなさず、殊に高石垣を取建てたること。(4)祖先より譜代の家臣多きに拘はらず近年他国人を召抱ふること。」さらに残りの三ヶ条について「その五六七の三箇条は詳かならず、公国史には忌諱に触るゝものあるより記録これを欠くとあり」と記されている。

 「南部史要」の記事を寛永武家諸法度【 】に照らしてみると、(1)の参勤日数が長引き予定の到着日に間に合わなかったことは第二条の「毎年夏四月中可致参勤」の定められた期限を守らなかったこと。(2)の南部領に切支丹が多いことは第十九条の邪蘇宗門の禁止令。(3)の出丸の新築と高石垣築造は第三条「新規之城郭構営堅禁止之」と居城の石壁無届修補の禁止のそれぞれに該当する、ものと考えられる。さらに他国人の召し抱えについては、寛永諸法度には消えているが、慶長の武家諸法度5条における「自今以後、国人之外 不可交置他国者事」に違反するものとみなされたとみるのが適当であろう。勿論、在府の家老石井伊賀守は各項目について弁明した。参勤延引は重直の持病発生のため、療養に意外の日数を要したからであること、切支丹が多かったことについて志和郡で新発見の朴山金山の採掘を請負わせた京都の丹波弥十郎が西国から連れてきた千余人の人夫に信者が多く含まれ周囲に宗旨を広めていたこと。出丸建築についてはその事実がないこと、城外の邸宅を設けその裏手に水害を防ぐための石垣を取建てたにすぎないこと。さらに他国人召抱えについては領内の男女が僻地に育って礼儀を心得ない者が多いため、都会の風を見習せようと少し召抱えただけであると答えた。そして七ヶ条のうち残る三ヶ条には伊賀守は全く答えることができなかったため、重直は即日逼塞を命ぜられたというのである。

 この石井伊賀守の弁明の第1の参勤交代の遅れについては、江戸中期以降の藩の編纂史料はいずれも重直がもと江戸吉原の遊女であった妾勝山を参勤に同道し、途中花巻にて意見対立し、怒った重直が彼女を生国酒田に追放するという閨門の悲劇があったことが伝えられている。【 】その理由はともかく、新しい参勤交代制度のために家光から信頼をうけ最も早く暇を賜り新たな制度による参勤第1号を期待された重直であった筈である。

 南部側の史料は「即日逼塞」を伝えるが、最近明らかになった他家の史料にその時点での南部氏に関する記事がいくつか登場する。重直の参勤日数について南部側の諸資料を総合すれば寛永13年3月21日盛岡発4月12日ごろ江戸着となり所要日数は22日程度である。これは当時の盛岡・江戸間の平均的所要日数が13・4日であるから通常は4月2・3日に着くべきところ10日程も遅れたことになる。この重直の遅参は当時、大名間で大きな噂となり、その処分についての関心が高まっていたと思われる。寛永14年1月28日付の江戸の鹿児島藩江戸家老の伊勢貞昌から鹿児島の島津家久への書簡【 】の中に
「一、南部殿之儀、去年者四月参府之筈ニ而候処ニ、気相悪候つる由にて、御理ハ
 二日江此地へ参府候二付、毎年四月ニ東国・西国衆被相替候様ニと、去々年被
 仰出候処ニ、其儀相違曲事之由被仰出、御目見得無之、下屋敷江逼塞候、其後
 色々不行儀之儀共、上聞候て身上可被相果ニ相究候(下略)」

 これは盛岡藩の編纂史料には見られない重要な事実にふれている。それは南部重直の4月参府について「御理は二日江此地へ参府候二付」とあるように、届出では4月2日に江戸着の予定であったことが知られる。遅れた理由は「気相悪候つる由」であるが、「御病気之段も御届之儀兼々不被仰上候と御上着被成候ニ付而、将軍家光公以之外御気色不宣、(中略)」【 】病気のことも届けず、江戸到着は予め届出た4月2日から無断で10日も遅れたことになった。これでは寛永12年に参勤交代を東西大名による交替制に制度化し整備したばかりの所にこの遅参事件である。この事は武家諸法度に違反するまさに「相違曲事」であると判断された。当然激怒した将軍家光は重直に裏切られた形で「御日見得」することなく南部家の下屋敷において逼塞を命じたのであると報じられていた。そしてさらに注目すべきは重直について「其後色々不行儀之儀共上聞候て身上可被相果ニ相究候」という情報である。そこでは遅参の件に加えて重直の不行跡のことなどまでが将軍の耳に入りもう重直の一代も終わりにきまったという噂までが九州に伝わっているのである。

 さらに次の5月13日付で細川忠利が熊本の父忠輿へ送った書状【 】の中に
「一、上様此比ハー段御気色能御座候、土用明候ハヽ御目見御座候ハんと奉存候事
  (第二項略)
 一、南部も、身上何共しれ不申候、東衆も御暇出候へ共、未国へ不被参候事
 一、国替之儀色々申候、定説無御座候事
  (以下二項目略)」
          五月十三日   一楽
 細川忠利の手紙は将軍家光がその後「咳気」で病床にあり、機嫌の悪い日が続いていたこと。たまたま最近「御気色がよい」様子を見て次の目見の機会を窺っていることが記されている。それに加えて前年(寛永13年)の南部重直の遅参のことが大名間で不安をよんでおり、その処分についてどうなるかわからない。在江戸の東国の諸大名も将軍から暇がでても重直は未だ国に帰れないでいるとのことだ。もしかすると南部重直は国替かも知れないなど情報が乱れとんでいるが定説はまだないと書き送ったのである。噂とはいえ、江戸では重直の参勤遅参という武家諸法度違反は改易や国替に相当する可能性があるという見方があったのである。

 寛永14(1637)年12月22日「江戸幕府日記」によれば
「一、南部山城守交替被仰出之処、去年令遅参付而、蒙御勘気蟄居之儀、今日御赦免」【 】と蟄居を赦免されたことが明らかにされている。この赦免の決定を受けて直ちに南部重直が、翌12月23日付【 】(「南部史要」は寛永15年としているが、「徳川実紀」は寛永14年)で、自ら盛岡に下した手書がある。
 「態令申候、我々事昨夜上意之旨ニて酒讃岐殿江被召寄、諸大名不残被召、御年寄中何れも御寄合、其上今度之儀被成御赦免候間、如前々之致御奉公候様ニとの事ニ候、其上重々忝 上意之旨無残所も仕合ニ候間、其段可令安堵者也」

 重直はこの手書によって在国の重臣を江戸に召集した。
 「八戸弥六郎、北九兵衛、北主馬、毛馬内権之助、毛馬内九左衛門、石井伊賀、中野吉兵衛、桜庭兵助、日戸五兵衛等の重臣、盛岡を発して江戸に上り、閣老に謁して恩赦を謝し国中始めて安堵す」
と「南部史要」は記している。

 武家諸法度違反という改易のおそれさえあった今回の遅参事件だけにまさに「残る所も無き仕合せ」というのが実感であったであろう。赦免の翌日(12月23日)付の重直書状とともに、在江戸家老の楢山直隆と七戸直茂が国元の3人の家老にあてた書状は、喜びを全面に表現し、酒井讃岐守と対面した重直の様子を「重々御懇之上意被仰ニ奉存候、其元各御喜察存候」と記している。【

 そのうえで、在江戸家老として果たすべき役割をきわめて具体的に書き連ねている。それらは当時の外様大名たちの情報を得て、将軍や幕閣への進物や接待用の準備まで細々と指示している。その中には「いかにも能御馬ニて疵々無之」馬を10頭ほど馬牽方ともにすぐ江戸に送ることを始め、上鷹と鷹匠さらに「御前之衆」「御持筒之者」「御料理之衆」「御配膳之者」「台御肴奉行」さらに「御番替之衆」などこれまでの逼塞の体制からの転換に向けて人員を要求している。また進物用として鶴・白鳥・鴨・雉子・山のいも・くしなまこ・くしあわびなどが要求されている。

 「江戸幕府日記」は、寛永15年正月11日条において、前年12月20日の赦免の通達を再びかかげたあとに「旧冬依御赦免今日登城、老中謁而退出、来15日可有登営之旨被伝之」と記されている。【

 この重ねての赦免記事が、ほぼ2年間の赦免の期間を寛永13年から寛永15年までの3年間として藩側の記録に記されたものと思われる。本来「逼塞」は「遠慮」より重く「閉門」より軽いとされ長期にわたるものではなかった。重直の逼塞期間が当初の予想に反してわずか2年足らずの短期間で赦免となったことについて、文政5(1822)年に成立した「聞老遺事」【 】は注目すべき記事を載せている。それによると江戸の東叡山寛永寺の天海僧正を通じて恩免を得たという伝承を確かめるため「聞老遺事」の編者の梅内祐訓が寛永寺の旧記類を探索してそれが事実であることを確かめ、その文書の写しも愛宕法輪院に存在すると記している。その内容を要約すれば、南部信濃守重直が逼塞を仰付けられた時「当山開山天海大僧正、公義江御詫被仰上候処、従 公義大僧正江南部家懇意由緒之儀如何様之筋合に御座候哉被仰上候様御尋御座候に付、大僧正より御答被仰上候趣は、南部信濃守利直儀先達慶長14・5年之頃駿府於 家康公御前上意有之格別懇意仕候以来当山城守不相替懇意之旨、将軍 家光公御代御老中阿部豊後守殿え大僧正御内に被仰上候処、右御詫被遊御承知旨被仰出候に付、大僧正早速御請被仰上右之趣御内々にて山城守殿江御吉左右御待被成候様、当山より被仰進候、右に付南部家閉門早速御免被仰出候由にて、為御知以使僧被仰越、相応之挨拶相済云々」さらにこの赦免については「御当家御記録」【 】中に水戸黄門頼房(家康の11子)は、南部利直と旧好があったことから、松平出羽守直政(家康の二男秀康の三男)と内談の上、天海僧正を通じて春日局に相談をもちかけ奏者番の春日局の孫稲葉美濃守正則や老中阿部豊後守忠秋を通じて、将軍家光の「御気色を相窺、御免御沙汰有ん事を御取計」があった結果であることを記している。

 このことは、当時(寛永14年)家光は深刻な病(不安神経症か)にあったことと関係がある。【 】寛永11年3月から家光は年寄の合議制を改善し年寄酒井忠世、土井利勝、酒井忠勝に月番制を命じた。さらに政務の能率化を図り、6人衆(若年寄)と町奉行にも分担させたため、政務処理は迅速化し結果は年寄連署奉書として下付された。

 寛永12年11月幕府の最高審議機関である評定所寄合が定例化し、大名からの要望の処理や幕府の政策審議が行われていた。この年には年寄に松平信綱、阿部忠秋、堀田正盛が加わり、前年からの土井利勝、酒井忠勝の5人の月番制となって大名は月番の「取次の年寄」に相談し嘆願する方法をとっていた。その結果、政務は進行するようになり、家光は自らの改革の成功に御機嫌であったという。しかし寛永13年4月朔日、帰国を控えた細川忠利が国元の父(忠輿)に送った手紙【 】には「爰元思し召しの外、何ごとも披露なりかね申し候事 大方にて御座なく候、(中略)一切何もかもはかの参り侯儀御座なく候、存の外にて御座候」

 このような案件の停滞の原因は、月番年寄の上申に対して将軍家光が気に入らない場合が多く、年寄も自己保身から将軍の機嫌や反応を窺うようになり叱責を恐れてのことであった。寛永13年4月の南部重直の参勤遅参に対し家光が「大いに御気色を損せられ」「怒り」をあらわしたと伝えられているが、処分についても改易・国替などいろいろの噂がでている事が寛永14年5月13日付の細川忠利の手紙【 】に記されていた。それも決定の遅れを物語っているのである。逼塞処分は直ちにだされたのではなかった。また赦免に動いた将軍周辺の人物でさえ家光の「御気色を相窺」いながら事を進めていたことが知られる。

 しかし、決定的なことは家光は神祖家康をもっとも深く尊敬し「東照大権現 将軍 心も体も一ツ也」との言葉を守り袋に入れていたほどである。【 】その家康以来の天海と春日局からの進言とあれば、月番年寄の意向を越えて赦免が早まったことは十分考えられることであった。


 4.重直参勤交代遅参事件の意義

 南部重直は寛永9年襲封後、藩主としての治世わずか5年で幕府による武家諸法度違反として逼塞処分となった。しかし、幸いにも2年ほどで赦免となったが、この事件は重直のその後の藩政の展開あるいは幕府・将軍に対する姿勢にどのような影響をもたらしたであろうか。まず、重直自身は三代将軍家光による新たなる公儀幕藩体制への宣言ともいうべき寛永武家諸法度の原理を結果的に軽視したことになった。利直以来の徳川家との関係をふまえる家光の信頼に応えるならば、参勤途上での花巻における事件などは大事の前の小事であったはずであるが、その見通しをもてなかったことは新しい幕藩関係への大名としての自覚にかけた点があったことは否めないであろう。そこに彼の個性が問われる問題がある。しかし、もっと厳しい処分が有り得る中で逼塞程度に留まったこと、さらに重直の赦免のために動いた家光周辺の人脈は、家康以来の信任の厚い長老天海僧正が中心となり、南部利直と家康との密接な関係を、春日局を通じて家光に伝えた結果の赦免であった。

 重直は赦免の報に接し、その思いを自らの手書の中で「残る所も無き仕合せニ候」と表現しているが、あらためて利直以来の徳川将軍家との関係の重要性を再確認したことであろう。かくてその後の重直による藩政の展開を再検討することが求められるところであるが、江戸時代の藩側の編さん史書のほとんどが藩主重直に対して厳しい評価を下している。その典型は「祐清私記」にみるつぎの評である。
 「殊に御生質御短慮にて無法非儀之御方に而御座候、御諌も中々承引し玉はす、御譜代諸士朝暮気を屈し候由、殊に御譜代之者共をは気が片事に而容躰無骨者共迚 身帯身上に及者多けれは 皆口を閉て一言申上候者なし」【

 すでにこの評価に示されるように、重直の積極的政策に対する譜代家臣からの反発がその中心であった。しかし、17世紀の国持外様大名諸藩に共通する課題であった家臣団と知行制の改革という視点からみれば、南部氏の初期藩権力強化のためのドラスティックな改革政治であったととらえることもできる。【

 その中で幕府との関係をみれば、逼塞赦免後の幕藩関係は財力の豊かさもあって度重なる初鮭、初鶴の献上や御鷹の雲雀、雁の拝領など極めて密接な関係であることは「江戸幕府日記」【 】に確かめることができよう。その中で実子や養子が早世したことから万治2(1659)年4月19日、病がちであった重直が譜代家臣たちの反対の中で堀田加賀守正盛の子、内蔵助を養子として認められた(翌年死去)。相続人のいない重直の意図が幕府との関係を強める中で、養子を定め藩の存続をめざしていたことを窺うことができる。さらに「徳川実紀」の寛文2(1662)年9月晦日条は「南部山城守重直子なきをもて、公の御旨にまかせ嗣子定めんよしうたふるにより、御けしきうるはしく、やがて其人をえらび賜はるべきよし仰下さる」と将軍家綱との取りきめがあったことを明らかにしている。【

 重直が寛文4年9月12日に死去し、南部家の相続をめぐって家臣団の対立が表面化するが、幕府としては藩の動向を見ながらも「山城守養子願之儀、年来及言上可仰付処 其内山城守死去、弟両人有之段及御聞 為同性之間遺領被分下」【 】との判断から分地がなされたのである。さらに「徳川実紀」には「養子せんことこひ置てうせしかば、遺領十万石を弟二人に分て、隼人重信八万石数馬直房二万石給ふ」【 】と明確に分地であることを記し、その上で重直が台徳院殿(秀忠)と親しかった利直の子であることを特記していることに注目したい。その背景には重直の参勤交代遅参事件による逼塞赦免をめぐる動きや嗣子選定を委ねるなどの対幕府関係重視の方略が自らの死後再び生じた改易の危機を救うことになったとみることができるのである。今後の17世紀以降の盛岡藩政の評価には幕藩関係や大名間の改革情報も視野に入れて検討すべきであろう。


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