![]() |
![]() |
● |
QあんどAで菊池克好氏の南部政直に関連して、女鹿家系図に『(前略)天正十七年、公子彦九郎政直君、御年十三とて御鎧御着初の御式法を勤む(下略)』とあり、南部史要には『利直公 公は信直公の長子にして(中略)天正四年三月十五日三戸田子において生る、幼名彦九郎といひ長じて晴直と称し、後年前田利家より諱の一事を受けて利直と改む(下略)』とあります。晴直と政直は一字違いながら南部利直のことではないかと思われます。如何なものでしょうか。 |
女鹿誠夫 |
● |
菊池克好さんから問題提起を受けました『信直公記』の天正6年8月5日条に散見する南部宮内少輔(南部政直)の件ですが、万見重元という人物を介してみれば、時間的空間に疑問が残ると申し上げました。 一方、今回女鹿さんからは、女鹿家系図に『(前略)天正十七年、公子彦九郎政直君、御年十三とて御鎧御着初の御式法を勤む(後略)』とあり、政直は利直の初名ではないかとの示唆を頂きました。 私は南部系図(信直以前の中世史に関連する部分)を全面を否定する考えは毛頭ありませんが、ある意味では批判的かもしれません。日頃から次の事柄を大前提にして勘考するように心懸けています。 1. 後世の編纂物ですが、『祐清私記』によれば、信直は織田信 長の許に馳せ参じようとしたが、素性を示す南部家系図は一本 も存在しなかったと記録していること。 (理由は色々想定されますが、私見は差し控えます) 2. 寛永諸家系図傳所収の南部系図は、寛永十八年に台命を受け て、摘人であった方長老へ依頼し作成したとされる、現時点で 確認できる現存最古の系図であること。 3. 上記二点からの類推に過ぎませんが次の様に考えます。 中世史に限定してのことですが、架空の人物が系図に掲載さ れていたとしも、実在の人物が洩れていても不思議はなく、む しろ、後者の方が遙かに多いであろう。と 今ここに、系図上では見えない南部宮内少輔(南部政直)と いう人物が出現したことにつきましては、史料批判に耐える傍 証史料の出現次第という縛りの中で「固定観念を持たない」で 対応したいと考えます。 勿論、関心が無いわけではありませんので、真偽究明に向け 格好の餌食が出現したと突っ走るであろうとは思います。 以上のような前提条件を踏まえて、女鹿さんのご意見を考えてみたいと思います。 1. 南部政直は天正六年八月に織田信長に対し進物を行ったとの ことですが、この時奏者を務めた万見重元という人物は、同年 二月に死去しているとされていますので、事件が史実であった として、その時期の下限は天正五年。それを遡る事件とは考え られないでしょうか。 2. 織田信長に献上云々ということは、南部政直は、年齢の如何 に拘わらず当主であると考えます。 3. 津軽からという場所の限定もあります。 これはこの場合無視しましょう。 4. 南部利直は寛永十一年に死去し、享年五十七歳とされていま す。逆算すれば、誕生は天正六年となります。 年齢については、父信直の誕生が遡る可能性がありま すので、その絡みもあって検討余地はあります。しか し、繁雑となりますので、これまでの通説に従います。 以上のようように考えますと、 1. 南部政直という人物が、織田信長への献上事件は、利直が誕 生を定説に従って天正六年とするならば、誕生以前となります。 2. 現在、信直の家督は遡る可能性があることは記述の通りです が、さりとて利直が家督を継いだ時期は、天正六年を遡ること は、どのような解釈をしてもあり得ないと考えます。 利直が南部宮内少輔であったとする推論は、成立しない考えます。 【追加】平成16年1月4日池克好さんより、前回工藤が 示した『戦国人名辞典』に散見する万見氏歿 月は誤りがあった旨、次の様にメールを頂き ました。 『信長公記』によれば、 「十二月八日申刻より、諸卒伊丹へ取寄り、 堀久太郎・万見仙千代・菅屋九右衞門両三人 御奉行として鉄砲放を召列れ、町口へ押詰 め」云々とあり、「酉刻より亥剋迄近々と取 寄り攻められ、壁際にて相支へ、万見仙千代 討死候」とあります。その脚注には、万見の 戦死は「多門院日記十二月九日条討死」とあ り、いず れにしても(工藤註 万見仙千代 討死は)十二月のことです。 現時点で工藤は『信長公記』を見ておりませ んが、菊池さんのご意見が正しいかと思いま す。しかし、それなれば、「天正五年を遡る ヵ」とした私見は「天正六年を遡るヵ」に繰 り下がりますけれども、利直がこの時点で家 督を相続していたかとなれば、やはり否定的 と考えざるをえません。従って政直は利直と 異名同人とする見解は否定する私見に変化は ありません。 以下に傍証史料もなく、荒唐無稽な仮説ですが、一つの考え方を提起致したいと思います。 1. 現存する南部家系図をみますと、近世の南部家は信字を通字 としています。しかし、信直の直字は何に基づくものか不明な がら、信直・利直・重直の三代と、利直の長男で福岡城主とな った家直及び同二男で男で花巻城主となった政直に限定され、 それ以上に広がりは見えません。 2. 敢えて想像を逞しくするならば、 仮説イ説 1 信直の父石川高信は津軽石川城を居城としていたこ と。 2 信直の直字は父からの通字とは考えられないか。 以上を重ね合わせて見るならば、石川高信と政直は異名同人で ある可能性は想定されないか。 仮説ロ説 1 信直の弟政信は父子二代にわたり津軽に居城したこ と。 2 高信の没年には元亀二年死亡説・天正九年死亡説な どがあります。元亀二年死亡説は津軽側の記録に見 え、天正九年死亡説は南部側の記録に見える説で す。天正九年死亡説の方がやや優勢のようですが、 両説とも傍証史料の傳存は確認されていないこと。 3 高信の死去が天正九年説に傾けば仮説イ説が優位。 元亀二年説に寄れば仮説ロ説が優位となります。 以上の事柄から、直政と政直は異名同人である可能性も否定出来ないない。但、これは、高信或いは政信の何れかに限定された場合の仮説であり、第三の候補者が出現すれば、そこまでのお話です。 何れにしても、どちらも宮内少輔を名乗ったとする所伝はなく、仮説の上に仮説を重ねた、屋上屋での空論です。 結論として、利直が南部宮内少輔であるという可能性はないと思います。折角のご意見ありがとうございました。 【参考】 信直の父石川高信の没年に関する異説 元亀二年説 五月五日夜 大浦殿五百騎程にて石川大淵ヶ先へ押寄、大膳殿を落し候由、同日和徳讃岐も落し候て諸人驚入候、尤、大浦殿は堀越町居飛鳥殿城ぇ入り候 『永禄日記』 斯て太守為信公は敵を思召侭に謀に落し入れ、今夜大仏ヶ鼻を夜討せらるべしと諸軍へヨ其旨仰せ渡され、扨板垣兵部は三人の客を見送りのため、打連立堀越の城にそ止りける。是は夜討の先鋒を兼て仰せ含められける故也。(中略)日頃は義勇を宗とせし世に誉れある高信なれとも、目くれ心も消果て忙然として居られしか、敵巳に本丸迄押詰たる由告ければ、今は叶わぬ所也と、極重悪人無他方便唯阿弥陀得生極楽南無阿弥陀仏と諸共に、惜気もなく引寄々々心元を差透し、西枕に押伏を吾身も腹一文字に掻切、妻子の死骸に押重り暁きの霜とぞ消て行とぞ、無慙なれ。可惜元亀二辛末年五月五日の暁に大仏ヶ鼻落城して、南部数代の栄躍一暁の夢とそ成にける。従卒とも方々の持口に敵を防ぎて有けるか、今は誰か為に命を可惜と差違々々義を後代に止めける。兎角しける内に五月の塩夜朗々と明にける。 『津軽一統志』大佛ヶ鼻夜討高信自害之事 同年説には、外に『封内事実秘苑』などがあるものの、概して 近世の津軽家の側で纏められた記録に多い。 註1 小友叔雄著「津軽封内城址考」は考証して、高信を高信 の子政直としている。 「うとう」第18号に「石川城落城当時の城主に就いて」 と題して、同氏による詳細な論考が掲載されいてる。 註2 「新編弘前市史」特別講座の際の資料「中世城館を巡 る」(講師弘前大学教授斎藤利男氏・当時同大助教授) によれば、「津軽封内城址考」までは踏み込まないが、 元亀二年説には否定的見解を述べている。 天正九年説 一、生者心減之世の習とは乍云無定は命数也、石川左衛門尉高信 世去りし後晴政公悲傷の積にや、英無気衰させ鬱虚して見得玉 へしが、同年の暮より御異例甚不宣以之外重くならせ玉ひけれ ば、御一族并大身の諸士を被召、予身まかりし後も鶴寿に忠を 尽せよと明暮云含玉ふ、既に今年も暮給ぬ、其年其年は目度幕 して明る天正十壬午新玉の松の内なる正月四日云々 『祐清私記』晴政公逝去 附鶴寿殿嗣続之事 一、天正九年二月十一日石川左衛門尉高信津軽にて病死、其子信 直・政信両人津軽の地を割可令領之由、高信遣言の處に晴政所 存有之、津軽を一円に政信に与へ信直は田子に有り。 『祐清私記』南部信直様之事 これを受けて『篤焉家訓』『内史略』その他の史書に、天正九年説が引用されています。 |
工藤利悦 151223 |