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1 大萱生玄蕃之事 |
祐清私記を読む |
盛岡中央公民館所蔵、南部家旧蔵文書。 【祐清私記】(ゆうせいしき) 伊藤祐清(宝永元年?延享2年=1704?1745) の私記。伊藤祐清は花巻から出て、寛保元年に円子記と共に藩命により諸士系図 武器古筆等諸用懸となり、系胤譜考65冊と宝翰類聚乾坤二冊をまとめた。この 時にあたり、南部根元記(なんぶこんげんき)、奥南旧指録(おうなんきゅうし ろく)のほか、収集した古記録を基にして南部信直・利直父子の事蹟を中心に前 後の消息を筆録した。 本書成立以前の伝承記録がほとんど散逸している現状の中で貴重な史料である と重宝がられ、南部家の歴史を語るときには広く引用されて図書である。しかし、 出典が示されていないこと、説話形式であるため実年代が捕捉しがたいこと、伊 藤氏は譜代の士であるが故か、上級藩士を江戸で多数召し抱えた重直には偏見に 近いものを感じられることなど問題点も多い。 なおあえて云えば、中世の記述については著者の時代の物の考え方を中世に時 代設定をして記述している嫌いがあり、それを意識して見るならば得がたい発見 もある。 総じて、当時の譜代藩士、特に中下級層の意見ないし、物の見方を知る上で得 がたい史料であるが、これまで史料批判のないままに、盛岡市史をはじめ多くの 史書・研究書が安易に史実を語る根幹史料として活用して来ていることから、著 しい誤解を生じさせるなど、多くの問題を巻き起こしている書でもある。
【読み下し文】 ここに斯波(しわ)殿の侍に、大ケ生玄蕃という者あり。先祖より斯波郡大ケ生を知行せしゆえ、かく名乗りける。本名は川村と号し、大職冠の庶流にして、藤原の姓とかや。しかるに太平記のころにや上方(かみがた)を没落し、斯波郡大ケ生へ来たり。自ら当所を押領し、土民すなわち「所の主」と仰ぎたてまつり大ケ生殿と号す。 子供二人あり。嫡子(ちゃくし)太郎は妾腹(しょうふく)、二男治郎はすなわち大ケ生にて出生す。これによって一郷の長(おさ)ども治郎殿を家督に立てられしかるべく候よし一同に申しける。 大ケ生も嫡子なれば太郎を家督に立てられたく思えども、領内の諸人帰服仕まつらず候うえは、たとえ嫡子に立てりとも、われ死後の変、覚ぼつかなくばいかんせんとて家督の定めはなかりけり。 さてその時に、大ケ生柿とて、種(さね)なしの名物の柿あり。もし実を食い当たる者は大いに幸せありければ、幸い柿の熟したる最中なれば、大ケ生殿村々の長ども召し集められ、子供両人に柿を食わせ、わが家督なる者は定めし柿の種に食い当たるべしと言われければ、皆もっとも同して見事に熟したる柿を兄弟の前へ供えければ、両人段々取って食いけるに、二男治郎二つ目に種ある柿に食い当たり、すなわち父の前へ出しければ、さては家督にそ極まれりたれと座上に直し、百姓とも一同に喜びけり。 今に至ってその言い伝えあり。さて太郎殿には本地の内(今は600石余、そのころは300石あり)100石を遣し、川村の名字を名乗らせ、大ケ生断絶せば川村より継ぐべしと約束す。領内静かに治まりけり。 【解説】 ■大萱生玄蕃とは 『篤焉家訓(とくえんかくん)』にも「大萱生玄蕃が事績」という項がある。内容は祐清私記とほぼ同様である。 大萱生(おおがゆ)氏は本名を川村と言い、元弘(1331?33、原文では「建弘」になっている)・建武(1334?35)のころに、奥州筋より北山(小山とも)、佐藤と共に不来方へ来て各地を襲撃。佐藤氏は帷子を領して帷子氏を名乗り、北山氏は日戸を攻め取り、川村氏は渋民村を手に入れた。その後、川村氏は太郎時秀の代に北山・帷子両氏と「争論のこと」があり、岩手を去り斯波の大萱生に居住した。十三代目が大萱生玄蕃であると伝える。 ■種なし柿 「わが家督になる者は種なし柿の種を食い当てるだろう」と玄蕃が二人の子に食べ比べさせた種なし柿は本当に名物だったのか。 『岩手県管轄地誌』(明治10年10月調)によれば、大萱生村の産物には、馬・鶏卵・米・大豆・小豆・アワ・大麦・小麦・ヒエ・ソバ・キビ・栗・蘿箙(大根)・薪炭・ざる・麻布とともに柿が見える。 『参考諸家系図』大萱生長左衛門秀春の譜によれば、寛永十二年に家督を継ぎ、この年三戸城代となった。その年の冬には、初めて藩主へ知行所大萱生村の核なし烏帽子柿を献上したところ大変賞美され、以降、恒例として毎年献上するのが仕来りとなったと見える。 ■川村氏について 岩手・紫波郡には本名を川村氏とする豪族がいた。『参考諸家系図』巻二十六によれば、鼻祖(始祖)を藤原秀郷(ひでさと)。佐伯筑後守遠義の二男山城権守(やましろごんのかみ)秀高が相模国河村の郷(さと)を領地とし、在名によって河村氏を称した。 兄波多野二郎義通は、保元平治の戦いに武功を顕した武者である。秀高には二男があり、長男は河村三郎義高。剛勇の人であったが源頼朝に石橋山の戦いで捕らえられ、さらし首となった。 二男を千鶴丸・後河村四郎秀清と言い、文治5年の源頼朝による奥州征伐に軍功を挙げ、東岩手の3分の1と東斯波(しわ)郡数郷の地頭職に起用された。その一族は岩手・紫波二郡の内に繁栄した。 ■大ケ生玄蕃の系譜 大萱生(おおがゆ)氏の系譜は定かではないが、『参考諸家系図』27巻「大萱生系図」によれば、河村四郎秀清二男の家と伝えている。 嫡流(ちゃくりゅう)は代々河村氏を称し、高水寺山に住居したという。後に南北朝の時、足利氏の庶流斯波(しわ)陸奥守家長が尊氏より紫波郡をあてがわれて下向(げこう=地方に下るというほどの意味)。 この時、麾下(きか=直属の家来)に属して高水寺山を退居、中島村へ移住した。さらに時が移り、上方へ上ったと伝えている。文明(1469?1487)のころ、その傍系に河村周防守秀興があり、斯波氏に仕えて大萱生村を領し、代々大萱生北舘に住居した。 数代の末裔(まつえい)、河村飛騨秀定は武勇のほまれ高い人であった。斯波安芸守詮定(あきのかみ・あきさだ)に仕えていた。 ある時、主君詮定に供(とも)して長岡村へ鷹(たか)狩りをしたことがあった。村の中に大沼があり、先年来、その沼にすむ怪物によって村人が危害を被っていることを知らされた秀定は、水中に潜り退治したことがあった。 詮定はその武勇を愛(め)で、鷲(わし)のような者として、家号を鷲内と賜り、その賞として紫野村をあてがったという。この沼は後に田んぼとなった。「今沼田と云所也」と記されている。 ■南部利直によって追われる 「祐清私記」には「斯波をそむき南部へ降参しけるとなり」と簡単に記されているが、その実は多少の話が伝わる。 大萱生玄蕃秀重は、河村飛騨、後改め鷲内飛騨秀定の嗣子(しし=跡継ぎ)である。 初め鷲内氏を称した。秀重の妻は主君斯波民部大輔詮元(あきもと)の叔母にして、中野修理康正の妻(詮元の妹)と叔母姪の続きであった。 中野修理は九戸政実(くのへ・まさざね)の実弟で、初め高田吉兵衛と称して斯波家の女婿であったが、天正(1573?1592)年間に南部へ出奔帰国して、その後岩手郡中野舘に住んでいた。 斯波氏家人らへ主家順逆を説き、ついに同16年(1588年)秋、斯波氏は滅亡した。秀重は中野修理を介して帰降し、本領大萱生村・根田茂村・砂子澤村・紫野村・稲藤村に高650石をあてがわれた。その後、旧主斯波詮元(しわ・あきもと)は山王海に潜居していたが、同17年困窮の末に秀重を頼って大萱生舘へ到来。秀重は憐れんで舘内にとどまらせてしばらく助けていた。 しかし、この事を謀叛(むほん)の企てありと讒言(ざんげん=告げ口)する者があった。同年10月初旬、利直はこれを聞いて激怒し、夜陰に乗じて大萱生舘を火攻めをもって急襲した。 これによって斯波詮元は大迫へ追われ、岳川目の大又へ潜居した。秀重は妻子と共に砂子沢村甲子山大戸壁に潜居した。この時、大萱生・根田茂・砂子沢などの村民が旧恩を懐かしんでひそかに衣食を提供したという。 ■後世まで住民から慕われる 大萱生家には、後世に至っても大萱生・根田茂・砂子沢の農家から正月の祝いに山折敷、浄法寺椀(わん)、田作粕菜、納豆、濁り酒などが、5月には折敷・三ツ和物、笋和物、濁り酒などが届けられたという。そのほか縁なし筵(むしろ)、番木、朝水桶(手水おけ)、足洗(たらい)、並びに諸色(いろいろなもの)が届いた。農家はこれらの品物を大萱生家に届けることを吉例としていたのである。 同18年、中野康正の取りなしで利直の怒りが解け、旧領に復帰した。この時、河村を改め大萱生氏と名乗った。慶長6年(1601年)、和賀岩崎陣、寛永3年(1617年)将軍上洛に供奉した。 信心厚く、舘内に舘八幡を勧請(かんじょう)したほか、加倉三日月の両大明神を勧請して村の鎮守となし、武蔵川越の蓮光寺住職、性翁和尚に帰依して早池山龍源寺を建立している。寛永12年(1635年)に致仕(ちし=退官)。同18年(1641年)に死去した。妻は斯波安芸守詮愛(しわあきのかみ・あきちか)の妹。末裔は遠野市に在住する。 |