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2 北十左衛門道心の事 1 |
祐清私記を読む |
【読み下し文】 かくて北十左衛門、先年に替わらず鹿角に住まいす。その身は金山の奉行を仰せつけられいたりしが、なにゆえ遁世(とんせい)つかまつると、その濫觴(らんしょう)を尋ねるに、子息に十蔵とて(いまだ元服もせず)容ぼう美しく才智衆に越ヘ、たまさか欣然たる雄士あり。 二、三年以来太守の御側(おんそば)に召し仕え、森岡に住まいす。君寵(ちょう)、日を追って厚かりけり。しかるに慶長十九年の頃にやありけん、森岡の城において屋形(やかた=南部利直)の召し上がられ候、朝のご飯に大豆ほどの白き石、入りたるを知りめされず召し上がられしが、御歯に当たりけるを吐き出したまいぬ。また御汁を召し上がられるに、魚の骨の大きなるあり。 御次の者ども、これはと驚き、身を冷しいたるところ、屋形、その時の御宮仕(おんみやづかえ)北十蔵を召され、今朝の料理は何者がしたりやとお尋ねによって、何それの当番と申し上げる。 屋形は憤りのお顔にて、しからば彼を計って討って来よと、大鮫鞘(おおさめさや)の御(おん)脇差しを渡したまえば、十蔵不安に思えども、上意なれば辞するに及ばず。 急に御科理の間へ走り行き、彼の男、御肴(さかな)を造り、何心無くいたるところへ、御意(ぎょい)なりと声を掛け、大袈裟(けさ)に切りたり。 この男、元来強勇の者なれば、心得たりというままに、倒れながら持ちたる鉋丁(ほうちょう)を持ってすかさず切りければ、十蔵が右の腕の脈筋の辺に当たりければ、十蔵本望は遂げれども、手負いなれば首取るまでかなわず。急ぎ御前へ参りこの由(よし)を申し上げる。 さりとも痛手なれば、しばらく昏絶しけるを、同僚ようよう助け下宿させ、良医力を尽くすともこの傷癒えることなし。 かくなりしかば、十左衛門、鹿角より立ち越していろいろ養生すれども甲斐(かい)なく、日を経て慶長十九年八月二十一日、ついに世を去りぬ。(健峯康公禅定門)聞く人、悲しまぬはなかりけり。 父十左衛門はじめ何れも哀傷の涙袖(そで)を絞りぬ。誠に楽しみ尽きて、悲生とは今このことかと思はれたり。 ある時、十左衛門、夜もすがら子息のことを思い出し、誠に老生不定とは言いながら、あまた持ちたる子なりとも離るれば悲しかるべきに、数ならぬ独り子の父に先立つさみしさ。子供の末を思えばこそ、これと申すも君ゆえか。今は浮き世に何かせん。出家せばやと思いけり。 自ら髪を下ろし、小座敷に引きこもり、後の世を念じおりけり。 一族驚き、このこと隠密かなうによらず、屋形へ披露つかまつらんと森岡へ告げければ、利直公、大いに怒りたまい、子を失ひ親に別れ、何れも誰か悲歎のなからん、さりながら、十左衛門、一応訴もせず、主も無きようにわがままの薙(てい)髪。上を軽んじたる行跡なり、沙汰(さた)に及ばんうちは閉門申し付けよとのたまえば、急ぎ奉行に命じて門戸を閉さしむ。 【原文解説】 北十左衛門について記した「祐清私記」の最初の項の出だしは「かくて」という言葉から始まる。いきなり「このようにして」と言われてもピンとこないが、伊藤祐清がこの項を記した当時、北十左衛門と言えば、だれもがよく分かっていて、いちいち説明するまでもなかった。盛岡藩にとってそれほど大きな意味を持つ人物だった。 北十左衛門の人となりについてはこれから紹介するが、真田信之、幸村兄弟の例にもあるように、戦国の世に血筋が絶えないよう多くの策略を地方大名はめぐらせた。その大きな策略の中で、消えていった盛岡藩のもう一つの血筋と受け止めていいだろう。 関ヶ原を前にして、徳川と豊臣のどちらにつくのが家のためによいか。盛岡藩伝承の記録は、その歴史を教える。そして生き残った者たちが、必要以上に北十左衛門について悪く書かねばならなかった事情も、ほのかに浮き上がって見えるだろう。そんな思いをめぐらせながら、原文を読んでいただけるとうれしい。 【大意】 北十左衛門の子に美しい息子があり、利直公の側に仕えた。ある時、落ち度があった料理番の処罰を命じられ、そのときの傷がもとで亡くなる。悲しんだ北十左衛門はてい髪して引きこもってしまう。それを知った利直は怒って閉門を申しつける。 【解説】 ▽ 道心とは仏門に入ること。北十左衛門が仏門に入ったいきさつを述べ ている。 ▽ てい髪には二種類ある。剃髪は髪を落として出家すること、薙髪は髪 を遺して出家すること。ここでは後者になる。 藩政初期の南部領は「財政饒(ゆた)かにして冨、諸侯の冠たり」(『食貨志』)と伝えられた。その財源は鹿角白根金山からの産金によるところが大きかった。 その白根金山は北十左衛門によって発見されたと伝えられる。『徳川実紀』は「奥州南部及び松前辺金山ありとて、佐渡より鑿工等競い赴く」(慶長十三年四月是月の条)と記録している。 慶長十九年(一六一四年)、豊臣家が滅亡した「大坂冬の陣」に、南部十左衛門と称し、また光武者と武名をはせた一人の武将が大坂城内にいた。 白根の産金や、泉州堺の町でととのえた大量の兵具を大坂城へ持ち込んだ北十左衛門その人であった(篤焉家訓所収『南部古代奥南深秘抄』)。大坂落城の後、十左衞門は高野山へ落ち延びようと図ったが、伊勢国で囚われの身となった(『阿曾沼興廃記』外)。 このため利直は、将軍徳川秀忠より両端が鮮明と激怒されて詰問を受け、十左衞門の処分を申し渡されたと伝えられる(『祐清私記』「「北十左衛門大坂籠城之事」)。 このとき、『祐清私記』「同上」は、秀忠をなだめる家康の言葉という形を借りて、「味方の諸大名、利直に限ぎらず何れも城中へ合力あり、真田兄弟のごときと心得べし、何れも子孫を思う故えなり、去(さり)ながら利直の振舞は旁若無人なり。然れども当城平きんに無くに(「徹底して」のこと)是非を糺さば、味方くづれ(崩れ)となり、そむく(背く)もの蜂のごとく出(いず)べし」。この言葉に真実が籠められているようにおぼえる。因みに、真田兄弟とは信州松代城主真田昌幸の子、徳川家康の女婿であった長子真田信之と、その実弟で大坂城に入城した同幸村の兄弟のことである。 この説話の真偽、まして、十左衞門が大坂城に入城した真の動機は知る由もないが、戦国大名としての利直の性格的な一断面と、「北十左衛門は旧臣ながら、大坂入城は南部家にかかわりはない。むしろ謀反人である」ことを強調した、将軍家に対する釈明のための意図が見え隠れしていて面白い。 (次ページに続く) |