![]() |
| 16 重直公正保中年頭御礼式仰せ出さること 「篤焉家訓」 |
| 180409 |
4072
【解説】 正月三日間の儀式を「元三(がんさん)の儀式」という。盛岡城の儀式は幕府の儀式を模倣したところもあって、時代的に変遷をたどる。例えば、『御礼式』は年頭の儀式を伝えて、元日に蛇沼惣左衛門は上下を着用。相米弥左衛門は素袍(すおう)を着用して登城、藩主の居間に伺候する。 蛇沼氏は鮭の塩引二尺と半樋(樽)一対を、相米氏は雉子(きじ)一番(つがい)と兎(うさぎ)のたたき一苞(つと)に箸(はし)一膳を添え、外に半樋一対を献ずると見える。鮭二尺とは長さではなく数量の単位で二尾のこと。 『南部史要』には初代光行が甲州から糠部に来たのは年の暮れ。そそくさと越年するが、両氏の先祖猿山(いざりやま)惣左衛門・総米弥左衛門の外、上砂子喜左衛門等が、新年の祝意を表して濁酒や餅・雉子・干鱈(たら)を献じたことに由来する嘉例であると見える。現在、桜山神社ではこれを神事として継承されている由。 一方、家老席の日録である『雑書』は寛永二十一年(一六四四年)以来の記録と知られている『雑書』によってその経緯を見るならば、「元三の儀式」に関連して具体的な記述は正保五年(一六四八年)から。併せて「田子・白坂・惣米、この三カ村より餅・御肴を献上」とする記述。しかし、ここには献上者個人名は見えない。参列者の氏名が見えるのは慶安四年(一六五一年)からである。この時に至って初めて「蛇沼惣左衛門御肴献上」と個人名が出現する。 とはいえ、ここにも『南部史要』や『御礼式』に見えているものはいささか異なり、御肴献上であって鮭の塩引二尺とは断定していない。日時の定着はさらに遅れる。 時は過ぎて寛文十三年(一六七三年)に至って初めて蛇沼惣左衛門が鮭塩引を献上したことと併せ、相米弥左衛門が兎のほか樽と雉子を献上したことが見えてくる。 『祐清私記』は、重直はこの佳例を意味なく中断させたと記述する。しかしながら、資料不足の中での即断は慎まなければならいものの、重直の代に幕府の儀式を模倣し実施したと見るのが至当と考える。 ちなみに、幕府にも兎を献上する家があり、『徳川幕府の制度』には日次こそ違え「林肥後守家が毎年十二月に兎を献上する例あり」と見える。 さて本文に見えることは、元三の儀式に参列する対象者及び新年の御礼を申しあげるために登城する諸士の礼服(らいふく)のことなど、格式についての記述である。 少しばかり本文に立ち入って見る。御一家とは藩主の家族のこと。慶安四年の記録には七戸隼人正・主水佐・数馬の兄弟三人が散見する。正保二年においても推して同じであったろう。 七戸隼人正重政は藩主重直の二弟。父利直代に家老を勤めた七戸隼人正直時の名跡を相続。のち二十九代の家督を継いだ重信である。 主水佐は三弟の山田主水利長。数馬は中里数馬直房といい、はじめ兄山田主水の養子となり、寛文四年(一六六四)に長兄重直が死去した跡、重直の願(『柳営日次記』)により八戸藩主となった四弟である。 高知(たかち)の初見については、「雑書」によれば、はじめ大名衆(正保五年正月)と見え、慶安三年正月に「高知うんぬん」、慶安五年に「高知行分の衆」と見える。これが語源であろう。 家老、御側頭などを勤める家柄として二十家ほどあった。注目されるのは宮部兵蔵・岸田右近の両人。宮部氏は因幡鳥取十三万石城主(鳥取県)宮部兵部少輔長熙の子、岸田氏は大和岸田一万石城主(奈良県)岸田伯耆守晴澄の子。いずれも関ヶ原の戦の戦後処理によって盛岡へ配流に処された人たちの子供が参列していたことである。 一方、同心頭は弓足軽・鉄炮足軽組の頭。長柄頭は長柄鎗足軽組の頭。使番とは先陣で軍令を受け持つ役職。横目とは目付の古名。御徒頭は御徒(歩行)の頭。軍団としての儀式であったことが窺われる。後世には御側頭、留主居、元〆、勘定奉行、医師、記録方、馬別当など、文官が加わる(『御礼式』)。 藩主の元日は衣服の着替えだけでも大変なものであったらしい。社参及び本丸での規式には官服(衣冠束帯)。二の丸上段の間に移動して藩士より年始のあいさつを受ける時には熨斗目(のしめ)に長上下。その他の時間帯には半上下を着用(菊池武侯『雑書』「御在国中御召附」)するものであったという。したがって、家臣においても格式により、衣服は多様であった。 「元日には二百石以上、二日には半上下にて、五十九石より以下は惣侍弐人立ち御礼申上げべく候。その節、御使番が太刀折紙・鳥目引き申すべくよし仰せ付けらる」と見える。 実はこの文章には文意が通じないところがある。『御礼式』によって補うと、時代的な相違と併せ概要が見えて来る。当初、上級藩士は目録を添え、献上品あるいは鳥目(金銭)を献上する仕来りであった。これが「太刀折紙(目録)鳥目を引き申す」である。 しかし、宝暦四年(一七五四)以降は「もっとも献上する品を調達出来ないときには目録を差上、品物は追って差し上げる」(『御礼式』)と見え、有名無実と化していたことが知られる。 もっとも幕府の場合においても、諸大名が太刀・馬を献上する慣行であったが、時代が若くなるにつれ、三方に載せる太刀は竹光に代り、目録には刀工名を添えて太刀と記載し、十万石以上の大名は金一枚。以下の大名は銀一枚と認めて金銭を献上(小野清著『徳川幕府制度の研究』)するように変化している。 次に「二人立ち御礼」という文言が見える。この変化は『公国史・官職志』によってうかがい知ることが出来る。八戸・中野・北のいわゆる「御三家」は廊下敷居際(以下同じ)より四畳目。これにも時代の変遷があり、『御礼式』によれば、八戸弥六郎は五畳目と見える。 その他の高知のほか、大老・老中・近習頭・用人等の重役は三畳目。御新丸番頭、大目付・留主居・花巻城代は二畳目。このクラスまでは「太刀折紙を以て御礼申上げ、盃、熨斗を頂戴」(『御礼式』)。 寺社奉行・持弓頭・持筒頭ほか目付・勘定奉行など長上下を着用してお目見する者は一畳目にてお目見をする。以上は独礼といいい一人ずつ御礼を申しあげる。 次に使番・勘定吟味役・各地代官・馬別当・野馬別当のほか百石以上の平士は二人宛、縁側障子際で御礼を申上げ、敷居の内でお流れを頂戴する。北地改役、平士百石以上は廊下で拝謁してお流れ頂戴となる。 平士五十石以下・医師・茶道は三人並んで拝謁。鳥見・勘定方・馬方・馬医・鷹匠等は柳の間下座で無刀にて一同拝謁、その他の区分があった。拝謁する人が多くなるにつれての変化とみられる。 総じて、正保二年の記録は管見する中では最も古い記録であり、藩政史をひもとくためには貴重な史料である。 |