大湯四郎左衛門

人物志 210121


天正十九年、九戸政実一揆の時に政実と命運を共にした武将。九戸城に籠城、登米郡三迫にて豊臣秀次によって首を刎ねらる。貞享頃ヵに成立した「奥南落穂集」は、鹿角郡大湯住人・大湯五兵衛昌光の二男、字を昌次と伝える。 「参考諸家系図」も概ね「奥南落穂集」に従うが、「鹿角由来集」京郡四十二郷に侍四十二住居之事の条は、大湯四郎左衛門をして大湯佐左衛門督嫡子と伝えている。

「鹿角由来集」
一、大湯村 本は大湯佐左衛門督、名字奈良総領、嫡子四良左衛門、次男治良右衛門、三男彦左衛門、右四良左衛門天正十九年九戸一味仕、被生捕九戸三之迫にて切腹仕候。治良右衛門・彦左衛門は津軽へ浪人、治良右衛門被召返二百石被下、三男彦左衛門は津軽越中へ奉公、後大湯五兵衛二千石、大湯・小坂知行、南部御一門毛馬内靱負従弟也。

「奥南落穂集」     
大湯五兵衛昌光━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
  鹿角郡大湯住人 奈良氏代々南部家に従て仕信直公二千石      ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┣昌忠━━━━━━━━━━━昌邦  
┃ 五兵衛 彦六       多門之助 正保中早世断絶
┗昌次━━━━━━━━━━┳昌吉━━━━━━━━━昌村 
  四郎左衛門      ┃ 次郎右衛門      彦三郎 
  九戸一揆頭人三迫被誅 ┃ 仕利直公出奔津軽行  仕津軽
             ┗昌致  
               彦右衛門
               仕津軽               

「参考諸家系図」 
大湯五兵衛昌光━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
   本名奈良氏 利直公の時召出され、旧知に依て大湯村并傍むらに二 ┃
   千石を賜ふ                          ┃
    一本、毛馬内靱負信次君弟也、考に信次君は公子にして弟なし  ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┣昌忠━━━━多門之助昌邦  
┃ 五兵衛       正保中早世断絶
┗昌次━━━━━━━━━┳昌吉━━━━━━━━━━━━昌村 
  四郎左衛門     ┃ 次郎右衛門         彦三郎 
  一生浪人に鹿角に死 ┃ 仕利直公、別に百石     仕津軽土佐守
            ┃ 後出奔津軽行、浪士にて死
            ┗昌致  
              彦右衛門
              兄と倶に津軽に出奔、仕津軽土佐守 

総じて言えば、
1. 四郎左衛門の親を大湯五兵衛昌光とする「奥南落穂集」、「参考諸家系図」説および大湯佐左衛門督とする「鹿角由来集」説がある。
2. 一方「鹿角由来集」は「毛馬内靱負従弟なり」とし「参考諸家系図」は一説として毛馬内靱負信次弟説を伝えている。
3. 大湯五兵衛については、「奥南落穂集」は仕信直公二千石とするが、「参考諸家系図」は利直公の時召出されと説は別れる。
 この両説を客観的に見ても、その次男に作る四郎左衛門が、天正十九年に討死にしてる事を勘考するならば、慶長四年に家督を嗣いだ利直の時に召出されたとする「参考諸家系図」は誤伝としなければならない。一方、天正初年ヵに晴政が浅水(信直の叔父、南遠江居城)、剣吉(南長義の娘婿・北尾張)を攻略する軍を起している状況(「八戸南部家文書」)を無視する説では有るが、「祐清私記」は信直を盟主とする北尾張が敵陣営に乗り込み、敵将三戸城主南部晴継(一説には晴政)の病死に伴う相続者決定の評議の席上、信直の相続が決定したと伝える。真偽解明はさて置いて、その文言は
晴継公の家督こそ九戸殿にて可然、無左は晴継公の姉婿なれは政実の弟たるべし、其時北左衛門信愛其座に在り、並居たる人々を見廻し、御一門・御親類座を連て控たり、先御一門には南遠江、同少弼・石亀紀伊・毛馬内靱負・東中務・野沢・大湯・七戸彦三郎、其外家士には桜庭安房・奥瀬與七郎・大光寺左衛門・楢山帯刀・野田掃部・久慈備前・石井伊賀・吉田兵部・福田掃部・種市中務・浄法寺修理・葛巻覚右衛門以下之人々段々並居たり、
の説には、大湯氏は「毛馬内靱負従弟なり」とする説を肯定する論拠にはならないが南部家の一族に連なる家柄であったことを暗に伝え、利直の時に召出されたとする説は否定していると受け止める。


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