江繋伯耆正光

江繋伯耆正光 211012

一戸彦太郎行朝の庶流。「奧南落穂集」は行重三男にして「信直公の時、三百石を領す」といい、『参考諸家系図』3 は、一戸彦太郎行朝五代の孫江繋彦四郎正朝男に作る。
 正朝は閉伊郡江繋村・八木沢村・重茂村に三百石を知行。江繋館に住居して氏とす。同郡小国の領主小国某と合戦の時、反忠の者があり討死と伝える。
 その子正光は父正朝が戦死の時七歳。乱を逃れて従者と嶽の妙泉寺に潜居。ここの成長して二十二歳の時に復讐して小国氏を滅亡す。南部晴政より旧領を与えられ、天正十九年九戸一揆には信直に従い、利直代・慶長五年岩崎陣に従軍するが、同十九年大坂冬の陣には老衰を以て嫡子(三男)正義を番代とした。正光には嫡子正義をはじめ六男一女あり。長男江繋与四郎光堅。その女は南部重直の妾亀の方。のち断絶。二男は江繋久三郎(八木沢金作家先祖)。三男善左衛門正義は、慶長五年部屋住で父に長兄光堅と共に崎陣に御供。同十九年には父に代わって大坂冬の陣に従軍。この時、二兄は別に召出されてあり父の家督を継ぎ、江繋村に百三十石を知行す。「雑書」によれば、寛永二十一年五月五日病死と見える。その子に二男あり、長男江繋善兵衛正家は浪人にて死去。その長男善左衛門政澄の時に料理方に召し出されたが、子孫にいたって宝暦十二年に家名断絶。政澄の弟江繋久甫は元禄年中御使者給仕にに召し出されたが正徳中断絶。
 遡って正義の次男にして正家の弟与茂八は、寛永二十一年幼少にて父正義の遺跡を継いで小性をつとめたが、のち、江戸にて過失あり、櫻田邸にて切腹し家名断絶となる


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