05 奥南落穂集 おうなんおちぼしゅう

著者 未詳 


【藩士の由緒・所務等】

南部家を取り巻く中世文書および記録類が散逸して伝存していないため、当地方に於ける中世以来の伝承は皆無に近いものがあるのではなかろうか。写本は個人の家にまま見かけるが、原本の所在は不明。『南部史要』の引用参考書目の中に『奥南落穂集』二冊があり、花坂吉康家所蔵と知られるが、花坂家に現存するか有無は未確認であり、まして原本であるかは不明。そのような状況の中で、未だ史料批判もされることなく活用されている記録ではあるが、現時点にては、両時代の接点として存在する本書の役割は大きなものがあると考える。本格的な史料批判がなされた記録『奥南落穂集』が、一日も早く到来することを期待したい。少なくとも、大まかに延宝七年を遡らない時期、更に記載されている人名から推して元禄十五六年前後の成立と考えている。  

追記
これまで,『奥南落穂集』は延宝七年を遡らない時期、元禄十五六年前後の成立と私見を述べていた。しかし,下記に示す事例によって再検討が必要であることを痛感している。

 

 

浄法寺家之事 一族臣下 の項に

   佐藤助左衛門正良           福岡与力八十石

   佐藤庄左衛門良正   助左衛門子

   佐藤庄左衛門近良   良正子     御給人

   佐藤庄兵衛政常    正良二男    福岡御給人十五石

   佐藤専右衛門正道   近良二男    御給人五十石

   佐藤庄之助正房    正長三男    浪人

が散見する。

 

この一族について『参考諸家系図』によれば

   佐藤助左衛門正良  寛文九年に与力新田百石拝領

佐藤庄左衛門良正  寛文九年家督(番代とも)延宝八年福岡与力八十石余

佐藤庄左衛門近良  正徳四年家督

佐藤庄兵衛政常   宝永八年十石の分地を受けて福岡与力、享保十九年十五石

享保二十年福岡御給人

   佐藤専右衛門正道  享保十九年福岡与力、享保二十年福岡御給人

と見える。つまり、

 

  
佐藤其右衛門家所蔵系図は
庄左衛門近良譜について
正徳四年継目被仰付、元文二年病身罷成、隠居願上被仰付、宝暦元年十二月二十五日卒
常安志田親居士

以上ことから。本書の成立は享保二十年前後かと云う問題が惹起されて当然となる。
しかし、原本が散逸している中,ここに示す記録は写本に拠るものであることに鑑み、課題は、今後各種写本の内容検討の成果によって原本の復元を試みることである。その暁には,佐藤氏一族にみる事例は他にもあるのか、存在するならば、それは当初から記載されていたものか,後世に至り加筆されたものかなど自ずと解明され、空白の中世末期から近世初期の歴史を検討する上で,これまで以上に貴重な史書の一つとなる筈である。

 

 この問題が一定の方向を見るまで,当面これまでの私見を維持し,見守るものとする。

                          平成25年7月7日  工藤利悦



【史料の概要】

戦国期の津軽家のほか、九戸家や斯波家、稗貫、和賀をはじめ、阿曽沼、閉伊・田鎖、秋田、浄法寺、戸沢、小野寺、本堂、江刺、柏山、葛西家など。滅亡した諸家を含めて簡単な由緒書、並びに家臣団を記している。ほかに鹿角郡、岩手郡の地士の動向等についても項目立てをしている。

【参考】目次 
一、津軽之事       一、津軽右京大夫為信   一、志和家之事
一、九戸左近将監政実   一、稗貫家之事      一、和賀家之事
一、遠野家之事      一、閉伊郡之事      一、岩手郡之事
一、鹿角郡之事      一、雫石戸沢家住居之事  一、浄法寺家之事
一、羽州仙北小野寺家之事 一、本堂伊勢守親通之事  一、秋田城之助之事
一、江刺兵庫頭重恒之事  一、柏山伊勢守明助之事  一、葛西正兵衛晴勝之事
一、大崎左衛門督義隆之事


【史料批判・雑感】

『南部氏諸士由緒』以下に続く一連の記録類には『南部氏諸士由緒』(慶安五年)、『系胤譜考』(寛保三年)がある。しかし、何れも史料批判がされたことのない三者三様の史料であるが、本書の活用のみならず、最低三者の照合を行った方が賢明である。その上で、『南部氏諸士由緒』、『系胤譜考』との違いというか、活用法は、両書とも官選ながらが『南部氏諸士由緒』は大部分が散逸して全体像が見えない状況の補完。『系胤譜考』が成立する以前に、既に断絶した家柄についての補完、あるいは手がかりが得られることとであり、また、南部家に憚かるような記載もまま散見し、確信をもって言える状況ではないが「これぞ史実か」と感じる事柄をもまま見受ける得難い記録でもある。とは言え、南部家史観に彩られている記録であることに留意が必要。転写本のみで原本は不明であるが、成立の時期は、文中に「御徒」の用語が散見することが一つの手がかりとなる。「御徒」の古称は「御歩行」といい、『雑書』延宝五年十二月十九日条に「午之刻御歩行横浜半四郎云々」と「御歩行」があり、同七年三月八日条には「米内孫兵衛預御徒云々」と「御徒」に変容している。総じて『奥南落穂集』は大まかに延宝七年を遡らない時期、更に記載されている人名から推して元禄十五六年前後の成立と考えられる。

【刊本】

『花巻市史』に菅馬笑の筆が入った写本が翻刻され納められている。

【著者・著書等】

未詳


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