24 晴継公逝去 附達戸信直家督之事


         晴継公逝去 附達戸信直家督之事

一、斯て晴継公御家督有し後、御幼少なれはとて田子九郎信直・南遠江両人軍将となる。九戸修理・八戸弾正大身と云、城ををも被預置ければ、後見領内之政事を司執らしむ、何も御遺言に任せ幼君を守立奉らんと上下忠動を抽きん出、去とも幼君と云、上威勢衰へ、下々心になれは、身近御一門田子九郎・南遠江・石亀紀伊や毛馬内靱負等何も小身也、八戸弾正其頃若年なれば、威勢既に九戸一人に取挫れけり、依之其下大方九戸に心を寄せければ、家従思々に心々ぞなりき、故に先公晴政逝去ましますとも、石川殿賓て在すならば斯くは有間敷に、僅半年も不過ヶ様之事変りたる事浅間敷也、晴継公生質賢く渡らせ給ふも、管夢と成果ん事痛ましや、当家二十五代年既に四百年に近し、今亡ん事の悲しやと心有る人々は涙を流し呟きぬ、斯て老少不定之習ひ晴継公痘瘡を煩ひ玉へ、佛神・典薬力も竭て僅に半年をも持給、御歳十三歳にて世を去り給ふぞ痛敷、一説に曰、此春屋形逝去之噂御葬禮場にて逆心の為に被討玉ひぬ、折節夜中の事なれば闇さは昏し、雪降り風頻なれば挑灯・明松も吹消、敵を誰とも知らざれば、御供之人々周章騒て御死骸を漸々三戸の城へ引たりけり、色々詮議ありけれども事更に不究、其日九戸政実・久慈備前(政実が弟中務が養父)俄に病気成とて出てさりし、彼等の所為なるべしと後にて思ひ合たり、晴継公之御逝去に二説あり、猶重て実義を可改し、扱晴継公若年に而失せ玉へば、世嗣に立玉ふべき御子なし、此上は御一族之内か又は家従之大身か、無左近国之領主より呼迎んと杯と取々様々許諚にて家従大に騒動す、其頃九戸修理政実は年も長、且つ執政の身、其上筋目も能、当家第一の大身なれば、侫奸之輩は尊敬貌に申様、晴継公の家督こそ九戸殿にて可然、無左は晴継公の姉婿なれば政実の弟たるべし、其時北左衛門信愛其座に在り、留り兼魅出並居たる人々を見廻し、御一門・御親類座を連て控たり、先御一門には南遠江、同少弼・石亀紀伊・毛馬内靱負・東中務・野沢・大湯・七戸彦三郎、其外家士には桜庭安房・奥瀬與七郎・大光寺左衛門・楢山帯刀・野田掃部・久慈備前・石井伊賀・吉田兵部・福田掃部・種市中務・浄法寺修理・葛巻覚右衛門以下之人々段々並居たり、田子九郎・九戸修理・八戸弾正等は其日は不被出、定て深き心得在る故ならん、干時北左衞門申様、各々好く御座上に何とて兎や角と評定なされぬや、死人を取行もせて家督之論こそ聞悪ければ、左様之心々之詮議にては主に成者多かるべし、南部の家督せん人只一人こそ候得、筋目なくして主になれば、上は威うすく下は背き、家必滅者也、色々なる沙汰を被差置候得、ケ様之見得究たる事をと四方を見廻して申ければ、何れも左衞門の底意を知らず、不審気に見得ける所に、南遠江申様、左衞門が心中を推量するに大方い当り候、是こそ我々の主君にし不足候まじ、石川殿世に存ひ被申なば是ぞ能世嗣ならんに、最早過去りぬれば、達戸九郎にこそ可在、定て左衛門申処是ならん、若無左物ならば石川左衛門の弟にて田子九郎には伯父なれば、乍不肖此南遠江か石亀・毛馬内此三人之兄弟にて候、筋目も詮議もなく時之権威力任之奪収ならば斯申某も少存念和らんと被言ければ、桜庭安房・大光寺右衞門等一同に言を加へければ、座中にも不興顔に見えける者多けれども、北左衞門之言に決定しければ、左右言出す者もなかりけり、
                        (つづく)
 



 【読み下し文】

  ■晴継公逝去 附達戸信直家督の事

 かくて晴継公御家督ありしのち、御幼少なればとて田子九郎信直・南遠
江両人軍将となる。

 九戸修理・八戸弾正大身といい、城をも預け置かせられければ後見、領
内の政事(まつりごと)を司執(つかど)らしむ、いずれも御遺言に任か
せ、幼君を守り立て奉らんと上下忠動を抽(ぬ)きんで、されども幼君と
いい上(かみ)威勢衰え、下(しも)心になれば、身近き御一門田子九
郎・南遠江・石亀紀伊や毛馬内靱負ら、いずれも小身なり。 八戸弾正そ
のころ若年なれば、威勢すでに九戸一人に取挫(とりすわら)れけり。こ
れによって、その下(しも)は大方九戸に心を寄せければ、家従思いおも
いの心にぞなりきゆえに、先公晴政逝去ましますとも、石川殿せめて在り
すならば、かくはあるまじきに、わずか半年も過ぎず、か様のこと変わり
たることあさましきなり。

 晴継公生質賢くわたらせたもうも、みな夢となりはてんこと痛ましや、
当家二十五代、年すでに四百年に近し、今亡(ほろび)ん事の悲しやと心
ある人々は涙を流し呟(つぶや)きぬ、かくて老少定まらずの習い、晴継
公痘瘡を煩ひたまへ、佛神・典薬力も竭(かわき)てわずに半年をも持ち
たまわず、御歳十三歳にて世を去りたまうぞ痛ましき。一説にいわく、こ
の春屋形(晴政公)逝去のとき、御葬禮場にて逆心のために討たれたまい
ぬ。

 折節、夜中の事なれば闇(くら)さは昏(くら)し、雪降り、風頻(し
きり)なれば挑灯・明松も吹き消し、敵を誰とも知らざれば、御供の人々
周章、騒ぎて御死骸をようよう三戸の城へ引きたりけり。

 いろいろ詮議ありけれども事さらにきわめず、その日九戸政実、久慈備
前(政実が弟中務が養父)にわかに病気なりとて出てざりし。彼らの所為
なるべしと後にて思い合いたり。晴継公は御逝去に二説あり、なお重ねて
実儀を改めべし。

 さて晴継公若年にて失いたまえば、世嗣に立ちたまうべき御子なし、こ
の上は御一族の内か又は家従の大身か、左ならざれば近国の領主より呼び
迎んとなどと取々様々評定にて家従大いに騒動す。

 そのころ九戸修理政実は年も長じ、かつ執政の身、その上筋目もよく当
家第一の大身なれば、侫奸の輩は尊敬、親しみに申すさま、晴継公の家督
こそ九戸殿にて然るべし、さなくば晴継公の姉婿なれば政実の弟(実親)
たるべし。

 その時北左衛門信愛その座に在り、たまりかね進み出で、並居たる人々
を見廻し、御一門・御親類座を連ねて控えたり。

 まず御一門には南遠江、同少弼・石亀紀伊・毛馬内靱負・東中務(なか
つかさ)・野沢・大湯・七戸彦三郎、其外家士には桜庭安房・奥瀬與七
郎・大光寺左衛門・楢山帯刀(たてわき)・野田掃部(かもん)・久慈備
前・石井伊賀・吉田兵部・福田掃部・種市中務・浄法寺修理・葛巻覚右衛
門以下の人々段々並居たり、田子九郎・九戸修理・八戸弾正等はその日は
出られず、定て深き心得在る故ならん。

 時に北左衞門申すさま、各々かくさえも上に何とてとやかくと評定なさ
れぬや。死人を取り行いもせで家督の論こそ聞き悪しければ、左様の人々
の詮議にては主に成りし者多かるべし、南部の家督せん人只一人こそ候
得。筋目なくして主になれば上は威うすく、下は背き、家必ず滅するもの
なり、色々なる沙汰を差し置かせられ候得。

 か様の見え究めたる事をと四方を見廻して申ければ、何れも左衞門の底
意を知らず、不審気に見えける所に、南遠江申すさま、左衞門が心中を推
量するに大方思い当たり候、これこそ我々の主君にし不足候まじ。

 石川殿(『寛永諸家系図伝』は晴政の弟、『祐清私記』は晴政の叔父、
高信)世に在り申されなば、是ぞ能き世嗣ならんに、最早過ぎ去りぬれ
ば、(その子息である)達戸九郎にこそ在るべし、定めて左衛門申す処是
ならん。若し左なきものならば石川左衛門の弟にて田子九郎には伯父なれ
ば、不肖ながらこの南遠江か、石亀・毛馬内この三人の兄弟にて候。筋目
も詮議もなく時の権威力に任かせ、これを奪い収めるならば、かく申す某
も少なからず存念あらんと言われければ、桜庭安房・大光寺右衞門等一同
に言を加えければ、座中にも不興顔に見えける者多けれども、北左衞門の
言に決定しければ、左右(とやかく)言い出す者もなかりけり。
                          (つづく)

 【解説】

 ここでは、前回に続く晴継の死去と信直の家督に関する大義名分を説い
ている。晴政の家督を継いだ晴継は、半年も経過を見ずに死去、南部家存
続の危急に立ち至った。群臣は家督の選定を協議したが、いっこうに決着
をみるに到らなかった。九戸政実に人望があり、政実自身か、または晴継
の次姉婿であり政実の弟である実親を推す声が大勢を占めた。

 このとき、北左衛門信愛が動議をし衆議を一決。武装して田子から信直
を迎えて二十六代の当主に据えた。その後の晴継の葬儀も、武具で固めな
ければ挙行出来ない雰囲気が場内を醸したと伝える。

 晴継と信直の続柄に関する疑問については蒸し返しを避けて触れない
が、晴継に関する異説を南部藩史編纂局の記録から引けば次の通りであ
る。「天文六(一五三七)年正月二十四日説、天文十六(一五四七)年六
月説、永禄六(一五六三)年説、永禄八(一五六五)年正月四日説、永禄
八年正月二十四日説、永禄九(一五六六)年説、元亀三(一五七二)年九
月説、天正六(一五七八)年正月二十四日説、天正八(一五八〇)年説、
天正九年説、天正十三年(一五八五)説」。その他の史書に当たればさら
に増える。一方、多くの説は、晴継は父死去の跡を継いだものの間もなく自身
も死去したと伝えるが、父に先立ち世子で死去したとする説(元文六年写
本『南部根元記』)もある。ちなみに、晴継については、藩政時代に追年
忌の供養が行われた記録はなく、晴政とともに墓碑の存在も知られていな
い。
   ◇  ◇

 遠野南部家に伝存する文書の中に、八戸薩摩政義へ宛てた晴政書状二
通、そのほか東中務書状数通の伝存が伝えられている。三戸城主南部晴政
が浅水城と剣吉(けんよし)城を攻撃するために出陣要請を認めた書状群
である。元文六年写本『南部根元記』には、晴政は信直を鷹狩りに誘い襲
撃した。『八戸家伝記』は、晴政は川守田毘沙門堂へ参詣をする信直を
狙って襲撃した。など、このため北信愛は、信直は国の器。殺すに惜しい
人物であると言って剣吉城にかくまい、晴政と戦闘状態に落ちたと伝えて
いる。

 『奥南盛風記』は櫛引河内が浅水を襲撃した時期を天正十九(一五九
一)年の九戸政実一揆の時とするが、実は晴政と信直の確執にかかる一連
の事件であったろう。ちなみに、浅水城主は信直の叔父南遠江長義、
剣吉城主は南長義の女婿北左衛門信愛である。信直の弟波岡政信の室は北
信愛の娘と伝える(『参考諸家系図』)。

 一方、晴政に攻めたてられた北信愛からも八戸氏に援軍の要請がなされ
ている(『八戸家伝記』)。『祐清私記』は「九戸初途之逆心」の項目を
たてて、天正元(一五七三)年に(講和後、政実は)「老母および同弟弥
五郎を人質として三戸に入れた」と記録している。九戸政実の乱と見るよ
りは、むしろ、晴政による浅水・剣吉攻城の時を伝えた事件ではなかろう
か。
次回に譲るが、この説話には、実はトリックが秘められているのである。
(次ページに続く)


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