53 普胤鑑考 ふいんかんこう

不明(圓子 記、伊藤祐清ヵ)

【藩士の由緒・所務等】

歴代藩主の黒印状所蔵者を目録仕立てにした記録。
外題を『由緒御書物』とし、原本の所在は不明。「篤焉家訓」『内史略』に写本が収められている。

本書は歴代藩主の黒印状所蔵者を目録仕立てにしたもの。『宝翰類聚』の姉妹編として成立を見たものであるらしい。

信直、慶長四(一五九九)年歿。利直、慶長九(一六〇四)年歿。重直、寛文四(一六六四)年歿の三代と、花巻城代彦九郎(政直利直二男、寛永元(一六二四)年歿)分に限定して百六十三家分(『内史略』には外に「館五左衛門と日戸甚之丞」の二名があり百六十五家分)が納められて、下限は明暦三(一六五七)年となっている。これは、南部家における藩主黒印による諸士に対する知行宛行状発給は、重直代の明暦三(一六五七)年を下限とし、翌四年以降は家老連署状に改編されていることを端的に傍証した記録その物であると言えよう。

【史料批判・雑感】

『普胤鑑考』が掲載する家は百六十三家。凡例では●信直分所持者十四家、○利直分同五十一家、◆重直分八家、◇彦九郎分十五家(花巻の召抱えとなる)とし、無表示のものが同七十五家である。

これを『系胤譜考』に照らし、再区分すると▽信直代発給黒印状所持者十家、利直代(彦九郎分含む)同百十八家、重直代同二十五家、不明十家となる。

ちなみに『系胤譜考』を親本とする『参考諸家系図』によると、信直以前から譜代の家臣と伝える諸家は百五家、信直代召抱同百五十二家、利直代同三百八家、重直代同三百六家、重信代同九百四十六家、行信代同二百七十三家、以下割愛。ここには『系胤譜考』が成立した時期を遡って廃絶した家(同族が存在すれば例外はある)は含まれていない。例えば、『正保三丙戌歳山城守重直公御代御支配帳』に散見する秋田忠兵衛、鷹巣又左衛門、湊市郎左衛門、水谷六左衛門、野矢半左衛門家など類例にこと欠かない。また、野田理兵衛書上の事例をみるまでもなく損亡した書状の数もまったく不明。サンプル数も決定的に少ない現状の中で全体分析に意味は感じられない。

以上の事柄を念頭に置きつつ、その内実の一部を『系胤譜考』に照らして見ても幾つかの事柄が見えて来る。事例を紹介する。

▼葛西正兵衛が提示した「慶長十五(一六一〇)年五月二十三日五百石加増、合七百石御墨印」は、原物の写しを掲載している。

▼太田伊右衛門が提示した五百石御印は、系図筆頭の太田民部譜に「和賀郡太田村の称号、和賀郡沢内にて八百石を下しおかせられるの由、その証文子孫に伝えず候。民部の長男伊左衛門譜には「利直公御代[和賀ヵ]郡沢田(内ヵ)村・太田村に五百石を賜い慶長十八年七月二十一日御黒印小高竪目録頂戴子孫に伝えるなり」。  二男小十郎譜に「親民部八百石の内三百石、願の通り分地、これによって利直公より兄伊左衛門と連名の御黒印頂戴、子孫に伝える」。書状写しは見ることが出来ない。

▼大光寺儀右衛門が提示した「三千八百石」の黒印状も左衛門佐正親譜は、状写しを添えないで「天正年中花輪城代を仰せ付けられ、花輪村・尾去村・三ヶ田村・谷内村・神田村・夏井村にて三千八百石拝領」とする一方、儀太夫正徳譜(養子・実弟)に「元和二年十月二十八日附、二千五百石の利直黒印状」および、その子林茂丸正邦譜に「寛永八年八月朔日附、二千五百石の利直黒印状」に状写を複数添えて掲載する。この事例は多い。

▼鬼柳三右衛門の氏名は本文に見えないが、「寛永十年五月十日附、和賀郡横川目村にて百五十石、重直公折り紙御黒印ならびに同日附小高目録御黒印共頂戴」と記述。類似する事例もある。

▼奥瀬内蔵が提示した慶長四(一五九九)年極(十二)月八日三百石」は『系胤譜考』により奥瀬伊之助とすべきだが記述はない。代わって慶長二十年四月二十一日附黒印状、(跡目により四百石)、元和年七年五月二十八日附黒印状(加増により八百石、状写しあり)を記録する。
▼中には「代々の旧記、去る享保卯十四年酉四月大沢河原大火の節焼失云々」(野田理兵衛書上)といった事例もある。

ここで私見は触れないこととするが、寛文六年に家老勤功により二百石加増、都合千石(同年二月七日附)の重信黒印状(状の写しはない)に興味を覚える。 重信による知行宛行に関する黒印状は、他にも存在(従来、明暦三年を下限とされて来た)するものか有無の検討が課題となる。

◇  ◇
総じていえば『系胤譜考』の総合分析を痛感してやまないが、視点を変えて利直状と比較し信直の発給文書が徹底して少ない理由を考えるときに頭をよぎるのは、九戸一揆に関連して両勢力の文書および、『南部根元記』の傍証記録が皆無である理由は何故かに興味を覚える。

多数あってしかるべき九戸政実の文書が皆無である理由と重ね合わせて考察するならば、自ずから信直発給文書が伝存しない理由が読めてくるように感じる。

信直と対峙した時期の晴政書状が八戸家にのみ伝存し他家に皆無の理由は偶然・必然、何れなのかも含めてその解明は大きな課題である。




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