青木 あおき 

青木俊助家


 明治元年支配帳に青木俊助家がある。『青木系図』によれば、同家七代佐左衛門の代に会津藩主加藤嘉明に仕えて河沼郡青木村(会津坂下町)他に二千石を領し、在名により青木を称したと伝えている。寛永二十年に加藤氏が除封後は保科松平氏に仕えて世襲した。青木俊助は諱を秀実と云う。明治四年に岩手県へ提出した身上書によれば、祖父は浅兵衛、父は佐左衛門。川上玄之撰の碑文によれば、宝蔵院流鎗術を会津藩士志賀小太郎に師事。抜群の技量があり、藩命により諸国武者修行をしたが技に敵する者はなかったという。安政六年流浪の身となり、仙台に至り江刺柏原村(奥州市稲瀬柏原)に移り住んだが貧困に甘んじて日々を過ごした。この時都鳥源司憫之の援助で道場を開き、花巻の諸士の指導に当たった。その名声は遠近に聞こえ、安村順左衛門の推挙で元治元年盛岡藩に宝蔵院流鎗術練達の士として仕官した。明治元年、戊辰戦争には鹿角口の内、葛原口より秋田領に進軍した総人員六百十二人、乗馬十一匹の中にあって、岩本全八と共に昭武隊頭取(戦士二十一人)として参戦。大館城落城分捕品覚には「隊長の首一ツ」が見える(『明治戊辰鹿角口戦争実記』)。廃藩の後、禄を失い、昔日の困窮を思い養蚕に専心し桑田を披き効果をあげた。ために旧藩士を勧めて従事し成功を収めたという。明治二十二年死去。碑文によれば「旧藩士の多く恒産を得る者多かったのは一に秀実誘導の功に頼ること多いといわれる」と表している。秀実の跡は秀三、素一郎、慈郎と相続し、当主修一氏は山形県に在住する。歴代の墓所は盛岡市材木町の永祥院にある。

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