赤前 あかまえ

赤前治部左衛門家

明治元年支配帳に赤前治部左衛門家がある。『参考諸家系図』によれば
盛岡藩の家臣に閉伊十郎行光の後胤赤前中務忠光を祖と伝える。赤前家は先祖某より類代閉伊郡赤前村に住居し在名により氏とした。忠光は二十六代信直の代旧地によって赤前村に二百石を領し同地に死去した。その子四郎右衛門義似が利直代に家督。次いで四郎右衛門吉保は重直代に相続して万治二年死去した。吉保の家督は四郎右衛門綱良が相続、寛文九年横目となり貞享三年死去した。その跡は嗣子四郎右衛門吉政が既に死去していたため、嫡孫の市郎左衛門寿吉が百八十石を相続した。その後畑返切添新田三十六石を加増され、次いで宝永二年八十四石を加増され都合三百石となった。同六年大叔父佐々木五兵衛政陳に三十石、弟赤前五右衛門義房に四十石を分地して残り二百三十石となった。享保十一年に隠居し元文三年死去した。享保十一年寿吉の跡を相続した治右衛門政敬は、同十四年切添新田三十五石を加増され都合二百六十五石となった。目付、寺社奉行、用人を歴任して宝暦元年暮に死去した。宝暦二年その跡を市郎左衛門政方が相続、留守居見習勤中の明和七年に死去した。政方の跡を治部左衛門が相続、座敷奉行表給仕兼帯となり文化七年に死去した。その跡を市郎左衛門政城が相続し先手役を勤め天保七年死去、四郎が相続した。四郎は持筒頭を勤め安政二年死去した。四郎の跡を治部左衛門沢質が相続、同六年身帯改めにより出高五斗三升を加増され二百六十五石五斗三升となった。沢質は幼年から小姓にのぼり、家督後先手役、目付を勤め、維新後監察、盛岡藩権少参事を勤めた。沢質の跡は六郎が継ぎ、当主勇一氏は盛岡市に在住する。歴代の墓地は盛岡市北山の源勝寺にある。

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