阿部 あべ 

阿部九兵衛家

明治元年支配帳に阿部九兵衛家がある。『参考諸家系図』によれば、阿部安左衛門宗永を祖と伝え、元禄年御徒に召出され、六駄二人扶持を食み、のち御徒目付を勤め、勤功によって平士に列せられたとあり、「系胤譜考」は三十代信濃守行信の代に持筒同心に召出され、正徳四年に死去したと伝える。実子がなく藤根五郎左衛門吉竹二男安之丞を養嗣子としたが、部屋住みで離縁したため、家督は嫡孫の安左衛門永隆が嫡孫承祖した。次いで宝暦三年に花坂理蔵吉仲の弟儀太夫吉安、同四年に長沢市左衛門の二男安右衛門、明和四年に小野寺与吉の二男文左衛門と養子で相続した。文左衛門の跡を安永四年に嗣子九兵衛知義が相続。知義は菊地弥右衛門方秀に師事して算術を学び、後江戸で元〆勤役の傍ら山路弥左衛門主住の門に入り蘊奥を極めた。下田直貞、志賀吉倫と共に三子と称御せられた。著述に「得幸録術解」「自好五十条」「郷村古実見聞記」その他がある。文化八年死去。長男儀八郎致栄は病弱であったためか家督を継がず、嫡孫の九兵衛知翁が相続した。致栄は文化十一年に死去したが、算術を初め下田直貞に学び、後志賀吉倫に師事した。日夜よく研究しその階に至ろうとしたが文化十一年早世した。算術関流七伝の一人に数えられる知義の二男保左衛門則敏は、初め志賀吉倫に学び、文政四年藤田嘉言の高名を慕い書簡を通じて教えを受けた。嘉言没後、天保十三年藩命を請けて江戸に至り、日下貞八郎誠の高弟内田弥太郎恭に師事し奥伝を受けた。門人輩出し著書は甚だ多い。文化八年祖父知義の家督を相続した九兵衛知翁は御元〆、勘定奉行となり、公事御用懸、国益御用懸、御蔵御用懸等を勤めた。算学の志厚く、初め叔父則敏に学び、天保二年江戸勤中、藤田嘉言の子貞升について学んだ。教えを請う子弟多く、則敏との共著を含めて甚だ多い。盛岡算学中興の祖と称されている。維新後盛岡県権大属心得となり明治五年死去した。知翁の家督を嗣子九蔵が相続。部屋住中に中奥御小姓、鉄炮方等を歴任、明治二年副補務となった。その跡を久次郎知久が相続、現在家名が絶えて旧盛岡藩士桑田の権利継承者は宮城県に在住する。歴代の墓地は盛岡市名須川町の龍谷寺にある。

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