阿部 あべ 

阿部宮之助家

明治元年支配帳に阿部宮之助家がある。『諸士給人由緒書上』によれば、大工棟梁から立身した阿部与市を祖と伝える。その先不明であるが、「古今賜俸録」によれば、大工棟梁阿部与市郎は安永十年に金五十両を献納して絵師格となったこと、天明九年に絵師格阿部与市は金子を献納して給人に取立てられたことの二条が散見する。両者の続柄は不明であるが推して同一人とみられる。与市はこの時二十五駄二人扶持を食み、その後寛政五年隠居した。その跡を源蔵が相続したが、文化四年柴内与五右衛門の事件に連座して隠居となり、二十五駄二人扶持のうち十六駄を収められ残り五人扶持となった。その名跡を運助が相続し、文政四年に隠居した。その跡を相続した与左衛門は、ひらた奉行を勤め安政二年隠居、その跡を雄平が相続して鉄山吟味役等を勤め、安政三年に隠居した。その跡を嬰太郎景義が相続した。景義は明治元年支配帳では宮之助とあるが、後年になって浩と改名した。初め工部省に出仕、天瀬陶器製造所所長、品川硝子製造所所長等を歴任した。明治二十五年及び同二十七年に岩手県より出て衆議院議員に当選、その後内務省社寺局長、群馬、千葉、富山、新潟県の各県知事を経て勅撰貴族院議員となり、次いで明治四十一年及び大正八年東京府知事となった。同十一年死去。嗣子金剛はフランスへ留学して洋画家。その子、当主の鷲丸氏は埼玉県に在住する。先祖代々の墓は盛岡市本町通の大泉寺にある。

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