阿部 あべ

阿部長立家

 明治元年支配帳に阿部長立家がある。『岩手県士族明細帳』によれば長三(初名・長立)の祖父を与七郎、父を竹治と伝え、弘化二年八月普代に召し抱えられ御側医に召し出されると伝える。

文政十一年に阿部竹治が藩へ提出した書上によれば、元禄十年に初代は四駄三人扶持を擬われて大工小頭に召し抱えられたとあり、『雑書』元禄十年三月八日条に「大工与一郎、唯今まで並料に候処、御切米四駄三人扶持を下さる」とあるのに通じる。書上の当人である当主竹治は七代目と認めている。

ただし、『雑書』享保十四年九月二日条には「大工小頭与一郎儀、先頃大工棟梁運助跡職を仰せ付けられ候により、小頭職を親類の内与七郎と申す者へ(中略)願り通り仰せ付けらる」とある事から推して、竹治まで七代は血筋の七代は考えがたく、小頭職家の代数を伝えていることも想定される。当家が阿部を名乗る経緯は、別に大工棟梁阿部与市家があり、与市家が士分に取り立てられていた経緯によって、由緒ある大工棟梁阿部家の名跡を残すため、寛政元年四月に与市より与七へ阿部の苗字を譲る願いを提出。これにより与七は苗字帯刀御免となった(『御職人棟梁願の部』)もの。文化五年与七の死去によって竹治は跡職を相続した。文政御支配帳では「四駄三人扶持・大工棟梁阿部竹治」が散見する。竹治の没年は不明であるが、天保御支配帳には阿部与茂七が散見。天保七年九月弟与七を養嗣子(『家督継目並諸養子跡目』)とし、同月隠居(『雑書』)。その跡職を相続した与七も翌八年に隠居。大叔父与五兵衛がその跡職を相続した(『雑書』)。大叔父とあるからには竹治の兄弟と知られる。その後む、明治元年支配帳には阿部与七で見える。ただし、与七は与五兵衛の改名か、嗣子であるかは未詳である。以上が本家で大工棟梁の阿部家の略由緒である。


当家の祖阿部長立は文政元年正月盛岡城下に大工棟梁阿部竹治の子として出生。のち医を鷹羽昌益に師事して天保末年町医をとなる。弘化二年八月鍼医として南部家に召し抱えられ、家禄二人扶持を宛行われる。安政三年十月奥御医師になるが、明治二年十一月廃藩。同十一年の士族明細帳によれば内加賀野小路十七番屋敷(屋敷を戸と誤解している向きもあるが注意を要する)に住居と見える。のち長三と改名し同三十三年死去した。その跡を立正、立三・捨彦(三男)と相続、盛岡藩士桑田の継承は立三の五男瑞三の後継者に継がれている。

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