荒木田 あらきだ

荒木田律衛家


 明治元年支配帳に荒木田律衛家がある。『参考諸家系図』によれば、荒木田次郎右衛門定次の四男権左衛門為長【系図参照】を祖と伝えている 。為長は二十九代重信の代に召出され五駄一人扶持を食み中小姓となった。のち家老次、次に玉山刑部久信、後の信恩附役となり二人扶持を加扶持、元禄十六年更に七人扶持を加扶持されて五駄十人扶持とった。その後宝永二年に三十石を加増されて百石となり、これを地方に色替された。正徳元年死去した。為長の家督を権左衛門為作が相続、使番、長柄頭、物頭等を勤め宝暦十一年死去した。為作の跡をその子権左衛門が相続して天明四年死去した。次いで権六が相続し寛政二年死去した。その跡を継いだ権六の子権左衛門は寛政七年に起きた百姓一揆に関わり家禄百石の内三ヶ一を召上げられ、残り六十六石六斗六升五合となった。この時隠居となり、家督を遠藤吉左衛門の二男与惣が相続した。与惣は翌九年隠居しその跡を等が相続した。等は花輪通代官を勤め安政三年隠居。その家督を律衛が相続した。律衛の跡を明治三年長太郎宗儀が相続、明治八年の士族明細帳によれば、宗儀は当時三つ割村八番屋敷に住居していた。

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