荒屋 あらや

荒屋勇吉家


明治元年支配帳に荒屋勇吉家がある。『参考諸家系図』によれば、荒屋宗宅を祖と伝え、明治維新の後荒谷氏、更に新谷氏に改め現在に至る。宗宅は初め津軽荒屋村に住居し在名により氏とした。後三戸に住居した。その子何右衛門久吉は、二十八代重直の代、寛永中に持筒同心として召出され五駄二人扶持を食み寛文中死去。その子何右衛門吉久は元禄二年雫石鳥見に召出され雫石に移住した。その後鳥見・村目付の名目で給人となり、宝永四年隠居し同年死去した。以降代々雫石に住居し鳥見を世襲した。吉久の跡を何右衛門久吉が相続し宝暦六年死去。その跡を何之丞が相続し天明四年に死去した。嗣子熊之助が出奔していたので、何之丞の家督は嫡孫の喜惣兵衛吉久が相続した。吉久は弘化三年隠居、その家督を何右衛門が相続し慶応二年隠居した。その家督を勇吉政且が相続、維新後荒屋を荒谷と改めた。政且の跡を政定、義郎と継いで当主新谷敬一氏は神奈川県に在住する。新谷と改めた時期は確認していない。

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