飯富 いいとみ

飯富良吉家

 
明治元年支配帳に本道御医師 飯富良吉家がある。『参考諸家系図』によれば、飯富覚右衛門昌豊を祖と伝える。昌豊は駿河に生まれ、初め山懸を苗字とし、のち飯富と改めた。その子良通義昶は筑前国粕屋郡勝田村(福岡県)に住居して勝田三郎兵衛と称したという。医学を志して長崎に至り外科を学んだ。この時飯富良通に改めたと伝える。後江戸に移り、寛文七年南部重信に仕官、合力金若干を支給された。同十一年十五人扶持、同十三年六十石が加増され百五十石となった。門人から大成者が多く輩出した。宝永四年隠居、同七年死去した。その跡を嫡子良伍義昌が相続。義昌は御側医となり、享保八年繋薬草園を建設、同十一年には幕府医師丹羽正伯の来盛にその応接を勤めた。同十二年隠居、寛保三年死去した。義昌の家督をその嫡子玄亀義根が相続した。のち幕府医師上領玄碩に師事、享保十四年江戸で死去した。その跡を義昶の四男良哲義輪が嗣子となり相続した。義輪は初め享保二年に医師で出仕、三人扶持を受けた。同八年三人扶持を加扶持、六人扶持となる。享保十四年甥義根の死去に伴い、主命によって本家の家督を継いだ。この時前禄六人扶持を門弟儀俄通格、同坂本通宅に各三人扶持づつ配分。同十六年死去した。その跡を小寺玄仲顕房の四男良碩義敷が養嗣子となり相続。寛延三年自殺して禄を収められた。その後元文二年に養子良通宅昌(実は義昌の次男)が藩の許可を得て江戸・京都で医学を学び、宝暦十二年医師として召出された。修行中に宛行われた手当二人扶持に一人扶持を加えて三人扶持を食禄した。明和七年御側医、安永九年五人扶持を加扶持されて八人扶持(高四十八石)となる。寛政七年死去した。その跡を嫡子良通昌名が相続、隠居の後天保十四年に死去した。その跡を嫡子了五昌俊が某年に相続して天保五年死去した。天保五年昌俊の跡を実弟了五昌齢が嗣子となり順相続、同十一年主命により京都の新宮涼庭に師事した。晩年に隠居し文久四年死去した。その跡を嫡子了博が相続。嘉永元年本道外科兼帯となり慶応二年死去した。その跡を実弟良吉昌徳が順相続した。昌徳は初め伊東元春定静の家督を継いだが、嘉永七年飯富の家に帰り兄昌徳の嗣子となっていた。家督の時一生士分の奉公を願い出て許された。明治十年の士族明細帳によれば、昌当時浅岸村(盛岡市)三十九番屋敷に居住と見える。歴代の墓地は盛岡市北山の法華寺にある。


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