石井 いしい 

石井道之進家



 五明治元年支配帳に石井道之進家がある。『参考諸家系図』によれば、石井山三郎正光の二男安右衛門光隆を祖と伝える。「参考諸家系図」によれば、光隆は安右衛門のほか、右馬助、兵三郎、兵太夫を称した。寛文二年に召出されて中小姓となり、二人扶持を食禄、次いで五駄一人扶持になったとある。一方「身帯並御加増分地被召出之類」には、石井兵三郎は寛文二年に二人扶持を以て召抱と見えるが、別に延宝五年にも石井兵三郎等二十八人を新規に召抱えて「一駄宛下され御中丸長いろりの間番」を申し付けたとも記録している。延宝五年の石井兵三郎は別人であろうか。その後「いろは御支配帳」(推定享保二年)には「五駄一人扶持(十六石) 石井安右衛門」が散見する。十六石に加増なったのは享保二年を降らない時期であったことが知られる。その後享保九年に光隆の家督を嫡子安兵衛(のち庄次郎、庄右衛門)が相続、安永四年隠居した。その跡を嫡子安兵衛が相続した。盛岡西根山奉行、歩行火の廻を勤め文化七年隠居した。その跡を嫡子熊太光海が相続した。火業師として国後、択捉、函館に在勤および備番であること十数年におよんだ。この間に幕臣奈佐瀬左衛門に師事して赤松流砲術を伝授され同流師範となった。また意明流長刀術および円流鎌術を市村伊八郎に師事して文政三年同流師範となり、流儀を戸川吉重郎助順に継いだ。嘉永元年隠居し安政四年死去した。その跡を嫡子安右衛門(のち直弥、道之進、一郎と改名)義時が相続した。大砲方長役、鉄炮方を勤めた。砲術は父光海の跡を継いで赤松流師範となり、意明流長刀術および円流鎌術は戸川助順に師事して奥義を極め、嘉永元年その師範となった。慶応元年物価高騰を理由に本高同様の手当米十四石が支給され、都合三駄四人扶持(三十石)を食禄した。明治八年死去し養子栄清がその家督を相続した。その跡を栄尚、勉と継ぎ、その子で当主の和夫氏は北上市に在住する。歴代の墓地は盛岡市材木町の永祥院にある。



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