石井 いしい

石井左右家


 
明治元年支配帳に石井左右家家がある。『参考諸家系図』によれば石井豊前を祖と伝える。豊前は南部信直に仕え、利直代の慶長六年二戸郡浄法寺の内に百五十石を食邑した。この時別にその嫡子新助綱長も部屋住で糠部郡九戸の内小倉村(久慈市)に七十三石二斗、桃子村(不明・九戸村道地ヵ)泉田村(不明)に十八石一斗二升、都合九十一石三斗二升を食邑、家督の時に返上したという。同一人物であろうか慶長六年の和賀岩崎陣に石井新助(二百石・馬印藤丸)が散見する。同十九年の大坂冬の陣に乗掛供衆二十八人の中に石井与五郎がある。「参考諸家系図」によれば、綱長の嫡子与五郎綱清は藩主重直の時に家督を相続したと伝える。とすればその相続は寛永年間を降る。与五郎綱清が父綱長の番代を勤めたということであろうか。与五郎綱清の跡をその嫡子新六綱治が相続、次いでその嫡子新之丞綱林が相続した。寛文三年新田十五石九斗八升を加増され、高百六十五石九斗八升となった。岩崎御番所御番人を勤め寛延四年に隠居した。その跡を与七郎(のち金八、徳左衛門、多左衛門)資安が相続。岩崎御番所御番人を勤めた。その跡を伊八、次いで天保十一年に左右(のち兵蔵)綱寧が相続。明治十年の士族明細帳によれば、綱寧は当時川原小路六番屋敷に住居と見える。その跡を鉄太郎、義雄と相続、当主の當子氏は東京都に在住する。高百六十五石九斗八升の采地は百四十一石を福岡通五日市村に、一石を同通荒屋村に、一石を同通目名市村(何れも八幡平市)に、八石を同通似鳥村(二戸市)に食邑(足高新田十五石九斗八升分采地は所在不明)した。



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