石井 いしい

石井八十八家


 明治元年支配帳に石井八十八家がある。『参考諸家系図』によれば石井新助綱長の二男与三郎秀綱を祖と伝える。秀綱は藩主重信の時に召出され、五駄二人扶持を食禄して家を創立した。その子・孫兵衛綱政は、初め近内長左衛門為矩の養子となったが、為矩に実子が誕生したため家に帰り父の家督を相続。元文四年死去した。その跡を嫡子四郎治(のち忠兵衛)重員が相続、新山物留御番所御番人、郡山東根御山奉行、毛馬内御蔵奉行を勤め安永三年病死した。その跡を嫡子忠吉が相続し天明四年隠居した。その跡を勝見(のち孫兵衛)が相続、初め別段廻となり、箟竹手入および検見のため領内を巡回した。のち郡山東根御山奉行、盛岡西根御山奉行、川奉行、川掃除御普請奉行等を勤め寛政八年死去した。その跡を嫡子林助(のち忠兵衛)が相続。新山物留御番所御番人、別段廻を勤めた。この間数度にわたり函館勤番のため渡海した。その跡を八十八綱原が相続。御目付所御物書を勤めた。文久二年勤中二駄を宛行われ、内実七駄二人扶持(高二十六石)を食禄した。慶応元年物価高騰を理由に勤中二駄を本高同様の手当米に切り換えられ、同三年更に一生支給となり、手当米ともで三駄四人扶持(高三十石)となつた。明治十年の士族明細帳によれば、綱原は当時飯岡新田村四十二番屋敷に住居と見える。



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