石亀 いしがめ

石亀徳五郎家

 
明治元年支配帳に石亀徳五郎家がある。『参考諸家系図』によれば、石亀喜兵衛政明弟石亀兵庫康朝を祖と伝える。政明、康朝兄弟の出自は不明だが、三戸郡石亀村(青森県三戸郡田子町)を本管の地と伝え、子孫の千春政道は墓碑に菅原姓を刻している。康朝の嗣子出雲古康(実は政明の二男)は実母泉山氏の姓を襲い泉山出雲古康と称した。その娘が南部氏二十六代信直の妾慈照院、二十七代利直の生母である。古康の嫡子政義は石亀権三郎と称し和賀郡小山田村(東和町)の内に二百石を領し、寛永六年死去したと伝える。次弟長兵衛直則は下田氏を称し、現当主下田直孝氏は秋田県に在住する。三弟石亀式部政治は別に二百石を食邑して御町奉行、花巻御城代となったが、その子庄兵衛政安の代、寛文中に断絶した。四弟石亀弥五郎成久は三百石を、五弟石亀善四郎政朝は百石を各々利直の代に食邑した。成久、政朝の子孫は何れも不明である。政義の跡はその子権三郎重誠が寛永六年に相続、明暦二年死去した。「重」字は藩主重直からの一字拝領と伝える。明暦三年その跡を継いだ嫡子権左衛門政次は旧領の内五十石を相続、貞享二年死去した。その跡を嫡子権左衛門成明が相続、正徳四年死去した。成明の跡を嫡子賢固成春が相続。表御次役、御納戸となり舞台御用懸、書物御用懸を勤め、寛延二年死去した。その跡を権左衛門政勝が相続、遊井名田御番所御役人、奥使、御賄頭、越中畑御番所御役人を勤め享和二年隠居した。その跡を千春政道が相続、雫石通代官を勤めた。政道は鶴年、葎園ほかを号して漢画を描いた。建部清庵の備荒草木図に写生十余あり、肖像画も能くしたという。文久二年死去した。その跡を徳五郎が相続、御弓方となった。明治十年にその子竹五郎が相続。その跡を吉文、保太、英徳と相続、現在亡夫英徳の跡を継いだ喜代子氏が盛岡市に在住する。歴代の墓地は盛岡市名須川町の東顕寺にある。采地は安俵通小山田村(和賀郡東和町)の内に五十石を知行した。


 

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