一条 いちじょう

一条助之進家

 明治元年支配帳に一条助之進家【系図参照】がある。『参考諸家系図』によれば一条左衛門五郎忠次の子覚左衛門太郎頼康を祖(参考諸家系図)と伝えるのほか、一条二郎忠頼の孫、弾正忠矩を遠祖とする「系胤譜考」の説がある。
 忠矩二十一代の孫、左衛門次郎重職の嫡子左衛門次郎元義は、南部信直が家督の時、甲斐の武田家に赴き信玄晴信より「信」一字受の使者を勤め、のち不来方城代となった。元和二年死去し名久井の法光寺に葬ったと伝える。「系胤譜考」は更に、その嫡子左衛門次郎頼元は慶長十九年大坂冬の陣に従軍、寛永四年死去し、三戸の報恩寺に葬ったと伝える。慶長五年の和賀岩崎陣に従軍した「二百石・一条覚左衛門」もこの人であろうか。ただし、晴政が武田家に赴き、一字を所望したとする説は、広く知られた説話ではあるが、「大館常興日記」によれば、南部彦三郎晴政が将軍足利義晴の一字拝領を所望してて天文八(一五三九)年七月に上洛しており、如何なものか、推して誤伝であろう。その跡を嫡子左衛門次郎義武(覚左衛門)が相続、晩年隠居して寛文十二年死去、二戸郡浄法寺村の福蔵寺に葬られた。その跡を実弟左亮頼康が相続した。「参考諸家系図」にいう覚左衛門太郎頼康と同人に擬定される人物である。この時二戸郡金田一村(二戸市)、前沢村(二戸市)、崎山村(不明・二戸市ヵ)にある采地二百石を相続したが、のち収禄され、寛永十三年死去した。その子伊兵衛良忠は承応元年に藩主重直の弟七戸隼人重信に召出されて物書となった。寛文五年その主重信が七戸家より南部家大宗を相続の時、表に召出され十駄五人扶持(高五十石)を食禄、元禄十三年に隠居して享保六年死去した。その跡を坂水又兵衛の子久兵衛忠栄が養嗣子となり元禄十三年に相続した。享保元年死去した。その跡を嫡子円治吉隆が相続、新山物留番所番人、越中畑番所番人を勤め延享四年死去した。その跡を嫡子幸平義明が相続、宝暦九年謫人金森兵部少輔頼錦(美濃郡山城主)の給仕を勤め同十二年に死去した。その跡を一条助之進忠則の嫡男勘太郎(のち伊兵衛)忠鎮が相続、賄役、新山物留番所番人を勤め寛政九年に隠居した。その跡を太田忠助春房の三男八弥(のち左兵衛)が相続した。遊井名田番所番人を勤め文政二年に隠居した。その跡を嫡子仁左衛門(のち秀兵衛)が相続、八幡寺林通代官を勤めた。心眼流劒術師範となり、その流義を石亀司に継承、天保四年死去した。秀兵衛の家督は嫡子実(のち助之進)宜貫が相続した。大奥用聞、毛馬内蔵奉行等を勤めた。その跡を明治二年に嫡子武一郎(のち忠純)が相続、同十年の士族明細帳によれば、忠純は下小路二十四番屋敷に居住していた。歴代の墓地は盛岡市大慈寺町の長松院にある。


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