一条 いちじょう

一条兵蔵家

 明治元年支配帳に一条兵蔵家家がある。『参考諸家系図』によれば一条助兵衛義尚の四男勘兵衛(のち勘五郎)忠之を祖【系図参照】と伝える。忠之は、天和四年に嫡子助五郎(のち勘太夫)、忠之は天和四年に嫡子助五郎(のち勘太夫)忠栄に家督を譲って隠居、別に給人に召出されて二人扶持を宛行われた。行信の側室右京附となり同四年五駄加増、また元禄九年に五人加扶持で五駄七人扶持(高五十二石)となった。その二男忠雄は元禄中、父忠之、兄忠栄とは別に配膳に召出されて五駄二人扶持を宛行われた。その後宝永六年父忠之の願によって前禄を返上、父隠居後の禄高五駄七人扶持を相続した。御側役、作事奉行を勤め寛延四年死去した。忠雄に実子なく久慈作兵衛勝正の二男勘次郎忠融を嗣子としたが、忠融は養父忠雄の忌中に死去した。重死は大法により家名は断絶した。その後、忠融の子宇太郎に家名立が認められ、同年新に三人扶持を宛行われた。その跡を養子儀助(のち勘左衛門)が相続。安永三年藩財政逼迫の折、勝手向に補い金を献金して三十二石を加増、五十石となった。寛政七年足高収例によって足高分を収められ、残り三人扶持となった。新山物留番所番人を勤め享和三年隠居した。その跡を嫡子常弥(のち甚五右衛門・兵蔵)基之が相続した。心眼流剣術を同苗金兵衛以忠より受けて文政十年師範となり、天保二年、一条源治基■[軛一車十目]に継承。同年十月九日死去した。天保支配帳に千作、安政支配帳に長作が散見する。何れも後の長左衛門と異名同人のようだが基之の子と推定される。安政中長左衛門の嫡子千作(のち長作、兵蔵)が相続、先供を勤めた。慶応元年物価高騰を理由に本高同様の手当米十二石が支給され、手当米ともで三駄四人扶持(三十石)となった。その跡を明治二年に嫡子弥平泰孝が相続した。同十年の士族明細帳によれば、泰孝は当時長町四十二番屋敷に居住していた。その跡を完助、清と相続、当主の公一氏は山田町に在住する。歴代の墓は盛岡・永祥院にある。

 諸士リスト(あ行)

盛岡藩士の家系メインリスト


一覧にもどる