市村 いちむら

市村喜左衛門家

 明治元年支配帳に市村喜左衛門家がある。『参考諸家系図』によれば水野正意直寛を祖と伝える。直寛の生国は尾張または三河と伝える。直寛は初め江戸に出て水野を以て馬医を業としていた。名医として近隣に有名を馳せた直寛は、延享三年馬医に召抱られた。翌四年盛岡に移り七人扶持を食禄、元禄三年死去した。その跡を嫡子庄三郎長之が相続、この時市村氏に改めた。享保十四年死去した。その跡を嫡子嘉平治往将が相続した。延享二年馬医から士班に列して百石格野馬別当となり、宝暦七年死去した。その跡を嫡子伊八郎(のち嘉平治)則因が相続、牛馬定役、春木奉行、台所奉行を勤め天明八年死去した。その跡を五男甚平(のち伊八郎、嘉平治)が嫡子となり相続。別段廻、取次を勤め、のち箱館勤番火業師として根室詰るが、文政十三年罪を被り野田給人となる。意明流長刀術、円流鎌術を横沢丹之丞に師事して文政二年に師範となり、同七年流儀を石井熊太に継承した。家督は嫡子福松、次いで天保九年にその嫡子喜左衛門(のち伊八郎)長僖と二代にわたり野田給人として相続した後、長僖は弘化二年盛岡給人に復して盛岡に還住した。明治十年の士族明細帳によれば、当時長僖の嫡子長が相続して山岸村五番屋敷に住居していた。


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