一方井 いっかたい

一方井 澄家

 明治元年支配帳に一方井澄家がある。『参考諸家系図』によれば一方井刑務少安武の二兄孫六安房を祖とする家である。安房はその兄孫次郎が死去して総領であったが、父の意に適わず浪人で一生を終えた。その子・孫之丞安時も浪人で死去した。安時の長男孫六貞貫が延宝三年徒に召出され六駄二人扶持を宛行われ、のち士籍に列し元禄十三年死去した。その跡を安時の弟孫七安宗に連なる又従弟八十郎道安(安宗の嫡子喜傳治安則の二男)が相続、元文四年死去した。その跡を嫡子八左衛門(のち孫六)安忠が相続。新山物留番所番人を勤め宝暦十四年隠居した。その跡を嫡子要助(のち孫右衛門)が相続して文化三年隠居した。その跡を嫡子孫七(のち八十郎、文政四年隠居)━弓助(のち峯右衛門)━養子澄安且(弘化三年家督、番割所吟味方物書、徒目付当分を勤めた)と継いだ。慶応元年物価高騰を理由に本高同様の手当米六石が支給され、手当米ともで三駄四人扶持(三十石)となった。明治十年の士族明細帳によれば、安且は上田村二百五十四番屋敷に居住と記録されている。その後安政━トシ━長市━ふゆ子━安治と相続、当主ヤス氏は宮城県に在住する。


 諸士リスト(あ行)

盛岡藩士の家系メインリスト


一覧にもどる