伊藤 いとう

伊藤栗庵家

 
明治元年支配帳に伊藤栗庵家がある。『参考諸家系図』によれば、伊藤庄左衛門助安の支族伊藤清次郎を祖と伝える系図参照。清次郎は十二丁目村(花巻市)に住居し、浪人にて農家となった。その跡を与兵衛━佐次右衛門と農家を営み、その子元栄亮况は享保中、盛岡に出て伊東元通の門人となり医術を学んだ。のち花巻に帰り町医となる。同十八年再従弟伊藤平内政庸より和賀郡藤根村(北上市)に野竿新田十五石を分地せられ、寛保元年改有高十五石一斗二升七合を禄して花巻役医となった。延享元年死去した。その跡を元伯祐高(明和九年隠居、寛政二年死去)━元碩(文化四年隠居、同一二年死去)━養嗣子元琳(町医・のち元民、文政十年隠居、天保二年死去)━恵迪(のち元英、元円)と相続した。弘化三年その名声が盛岡に知られ、城下支配━奥医師となった。嘉永元年隠居。のち命により別家を興したが安政三年死去、一代で断絶した。その子元悦は嘉永元年家督、安政二年に隠居、その跡を継いだ栗庵(のち栗蔵)祐則は、慶応元年物価高騰により、安定を見るまでの機嫌で手当米ともで三駄四人扶持(高三十石)を禄した。祐則の家督について明治初年の記録は何れも安政三年とあるが、藩庁記録である諸士給人由緒書上には安政二年家督とある。安政二年が正しい推定される。明治十一年の士族明細帳によれば、向中野村(盛岡市)七七番屋敷に居住と伝える。その跡を祐成━祐一━千成と相続、当主の萬里は花巻市に在住する。 諸士リスト(あ行)

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