伊藤 いとう

伊藤末太家


明治元年支配帳に伊藤末太家がある。『参考諸家系図』によれば伊藤傳三郎助房の二男伊藤武兵衛助因を祖と伝える系図参照。助因は藩主重信の時、配膳に召出され四両二人扶持(高三十二石)を宛行われ、享保十一年に死去した。その跡を本宿弥次右衛門家定の四男与右衛門助傍(助因外甥、明和元年隠居)━武兵衛(のち理兵衛、明和二年に相続、大更新田奉行、台所奉行、配膳、盛岡東根山奉行、本丸末用達を勤め、文化八年死去)━栄助(のち与右衛門)と継いだ。栄助の文政六年以降は明らかでない。文政十年に当主の氏名は欠落して不明だが、寛保新田の改めがあり、五斗五升三合の加増があった。栄助(のち与右衛門)代の事ではなかっただろうか。その後天保十年の「諸士平年所務書上」に「三十二石五斗五升三合 伊藤織人」があり、以降文久二年の支配帳まで伊藤織人の氏名が見える。納戸、大納戸奉行を勤めている。明治四年に子孫末太(旧名織人)祐式が盛岡県に書上げた由緒書によれば、養祖父織人、養父友吉とある。自分は文久二年に相続し明治四年五十七歳としている。逆算して文化十二年の誕生である。年代的には栄助(のち与右衛門)の子供と看做して差し支えない年齢である。天保年間から散見する織人と養祖父織人は同人であり、栄助と養祖父織人もやはり同人ではなかろうか。養父友吉の家督相続は文久二年と推定され、同年七月には祐式が相続している。となれば養父友吉と祐式は兄弟、兄友吉の跡を実弟祐式が末期養子となり相続したことが想定される。慶応元年金方十二石が扶持方に色替され、高は高三十二石五斗五升三合(内四両二人扶持)となった。明治十年の士族明細帳によれば、祐式は当時上田小路八番屋敷に住居と見える。祐式の跡は祐━春雄━トキと相続して家名は絶え、現在旧盛岡藩士桑田の権利継承者は盛岡市に在住する。高三十二石五斗五升三合の内の采地五斗五升三合は厨川通大釜村にあった。歴代の墓地は盛岡市愛宕町の恩流寺にある。
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