伊藤 いとう

伊藤弁治家


明治元年支配帳に伊藤弁治家がある。『参考諸家系図』によれば伊藤長右衛門を祖と伝える。長右衛門は稗貫郡十二丁目村(花巻市)の人。壮年の頃仙台に行き同藩士小梁川修理の家臣となった。のち盛岡に帰り、元禄中長寿院殿(藩主行信の妹)附の刀差に召出され、禄若干を宛行われた。宝永七年死去して収禄された。その子長治広治は商家となり、商才に長けて富家となった、享保十一年鹿角尾去沢銅山の請負を勤めた。同年中に役金の内として八百両を献納し、毎年六百五十両を献金する手形を提出、その後も多額の献金をした。同十三年士籍に列し五人扶持を宛行われ、同十四年国金銭御用掛となり、二十石を加増され五十石となった。同年更に前禄を停めて地方百石となり、采地を鹿角郡尾去村(秋田県鹿角市)、岩手郡野駄村(松尾村)に知行した。同十五年勘定頭となり、同十六年江戸桜田邸が類焼に伴い、その普請を担当した。同十七年完成の賞として現米百石を加増され二百石となった。同十八年勤中の罪を被り禄を収められて八戸内記に預けられた。この時助扶持七人扶持(高四十二石)を宛行われ、寛延元年死去した。その子長四郎祐玄は父失禄ののち浪人にて死去した。その後祐玄の子宗右衛門が銅山方となり、その功績で天明四年士籍に列し三人扶持を食禄した。その後も銅山方、物書を勤め天明五年死去した。その跡を養子良蔵(のち宗右衛門)が相続、同六年死去した。その跡を小野丹右衛門の二男駒之助(のち長兵衛)が相続した。翌八年三人扶持のうち一人扶持を取り戻しとなり、二人扶持となった。御雇勘定、八幡寺林代官所下役、田名部代官所下役、北地改役兼締役、万所奉行等を勤めた。長兵衛の家督を嫡子長兵衛、次いで文久二年その養嗣子左衛太(のち長司)祐右と相続。慶応元年物価高騰に対応して本高同様の手当米十八石が支給され、手当米ともで三駄四人扶持(三十石)となった。明治十年の士族明細帳によれば、祐右は当時下小路五十一番屋敷に住居と見える。その跡を祐之が継ぎ、その子で当主の稟太郎氏は宮城県に在住している。歴代の墓地は盛岡市名須川町の東顕寺にある。 

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