岩井 いわい 

岩井末治家


明治元年支配帳に岩井末治家がある。『参考諸家系図』によれば、檜垣傳兵衛の子岩井佐左衛門吉冨を祖と伝える。傳兵衛は京都須原の人。慶長中盛岡に来て住居、一説によれば寛文五年きりしたんのため刑死したという。その娘艶(または蓮、紺)は大奥に勤めていたが、城中を出て刑場から父の首を盗みだし円光寺に葬った。藩主行信はその孝心に感じ、のち側室としたと伝える。信恩の生母慈恩院である。慈恩院は元禄十六年父菩提のために円光寺に五十石の寄進、正徳二年死去。東禅寺に埋葬された。慈恩院の弟吉冨は元禄中その所縁によって召出された。相撲行司となり、三人扶持と四季施七両を食禄、同八年死去した。その跡を嫡子与左衛門吉広が相続した。同十六年前禄を停めて地方百石と五人扶持を知行し御次役となった。宝永四年五人扶持を加増されて百石と十人扶持(高百六十石)になり同七年死去した。その跡を二弟与市郎吉定が相続した。吉定は初め元禄中二男で召出され、一人扶持と四季施三両を食禄、同十六年一人扶持が加増され、二人扶持と四季施三両となった。宝永七年前禄を返上して兄吉広の養嗣子となり同年相続した。享保十八年死去した。その跡を嫡子三次郎(のち佐次右衛門)吉豊が相続した。同二十年浄智院(藩主信恩妾、黒沢傳兵衛定治女ヤス)の法事の時、相番の者が番頭を殺害する事件に連座、半知を収められ地方八十石内五人扶持となった。舞台番を勤め、寛保四年死去した。その跡を三弟岩調(のち新助、新右衛門)が相続。御取次、舞台番を勤めた。その間に宝暦十二年謫人金森兵部少輔頼錦の構番となり次詰を勤め寛政五年隠居した。その跡を嫡子久之助が相続、盛岡東根山奉行、門馬山奉行、川奉行、穀留用掛、浜田番所番人等を勤めた。晩年については知らない。その後天保十二年支配帳に四方之助、弘化中の支配帳に緑左衛門が散見する。久之助と両者の関係は未確認である。緑左衛門の跡を安政初年にその嫡子末治が相続、その跡を明治十年に嫡子清吉影が相続した。同年の士族明細帳によれば、吉影は下小路六番屋敷に在住と伝える。その跡を金太郎━逸郎と相続して家名は絶え。旧盛岡藩士族桑田の権利継承者は埼玉県に在住する。歴代の墓地は盛岡市南大通の円光寺にある。高八十石の内地方五十石の采地は傳法寺通下末本村にあり、残り三十石は扶持米を食禄した。 諸士リスト(あ行)

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