岩間 いわま

岩間五八郎家 維新後下山と改名


 明治元年支配帳に岩間五八郎家がある。『参考諸家系図』によれば、岩間左次平政嶺の三男岩間五八郎政好を祖と伝える。政好は正徳元年に兄喜内政之が笠間権之丞政興の養子になった時、政之の身帯二人扶、外に持四季施金二両を以て召出された。享保十六年死去。その跡を上野小市郎栄官の二男藤右衛門通節が相続した。内実は兄喜内政之の子であるが、故あって上野忠太夫栄広の弟にしたものという。家老次、金奉行、舫奉行、奥使を歴任。天明六年寸志金を献納して加増、合わせて七十石となった。同八年死去し。その跡を市郎兵衛が相続、勘定頭となった。寛政六年類焼した江戸上屋敷の再建普請に目付加を兼ねて担当、同八年倹約懸を勤めた。この年に郡山に百姓一揆がおこり、城下に押し寄せ事態を以て引責処分を受け元高の二両二人扶持(高二十二石)となった。蝦夷地が幕府直轄地となった年の同十一年函館出役となり同地に越年した。その後側目付となり、客懸を勤め文化九年死去した。その跡を市兵衛が相続し文政二年死去した。その跡を市郎太が相続し雇勘定方を勤め天保十五年死去した。市郎太の跡を佐五右衛門が相続、次いで安政元年金田一善之丞の三男五八郎政徳が相続した。政徳は雇勘定方、大砲方、差図役を勤めた。明治三年三月改正の士族組合名簿には岩間五八郎とあるが、同四年正月改正の士族名簿では既に下山五八郎と改名している。この間に岩間を下山に改めたことが知られる。明治八年士族明細帳には岩間五左衛門復姓、旧名五八郎こと下山政徳、明治十一年士族明細帳は政徳跡政雄、加賀野村二百十八番屋敷に住居と見える。政雄の跡は寛己━恭一と継いで当主下山寛氏は盛岡市に在住する。



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