岩本 いわもと

岩本全八家


 明治元年支配帳に岩本全八家がある。『参考諸家系図』によれば、但馬国主山内家旧臣岩本兵部を祖と伝える。兵部の由緒については、祖父を福田次郎兵衛、父を福田半右衛門(但馬国岩本城にあって在名により岩根を氏とした)、主家山内家と山名氏が合戦の時、山内氏は滅亡、この戦いで全八自身も討死にしたともとする説を伝えると共に、実は福田氏は母方(筆者註・母方とはその子理右衛門武家から見ての義)にして岩本の祖先に非ず、かつ事績は福田(のち村上)氏にかかる事象」と否定説を併記する。ただし、正史の上から見れば但馬の守護大名山内祐豊、氏政父子は天正八年羽柴秀長の出石城攻略によって滅亡しており、山名氏が山内氏との合戦云々は、所傳の誤りか。

 さて、兵部戦死の時、子理右衛門武家は、幼少であったため、由緒によって毛利元就の家臣某氏に養育され、のち毛利氏に仕え三百石を領した。その子は三子あり、何れも毛利家の家臣となった。その内二子理右衛門家次は、毛利元清が没後、その夫人栄長院(黒田氏)が福岡藩主黒田氏の所望によってその重臣栗山備後利安に再嫁する時、栄長院に従って筑前に移り栗山氏に仕えた。寛永十年利安の子大膳利章が盛岡に配流された時、栄長院は毛利氏に預けられ家次も従って長門に帰ったという。

 註 毛利元清は元就の五男穂井田元清(「系胤譜考」)であろうか。実は『寛政重修諸家系図』上では、毛利・黒田両家の間に姻戚関係は見えない。詳細系図の確認は行っていない。

 その子安左衛門武辰は寛永十年父に従って長門に帰ったが、翌十一年長門より旧主栗山大膳利章を慕って来盛、母方の氏村上と改めて栗山氏に仕えた。寛文十二年南部家に召抱られ現米五十石を宛行われ貞享三年死去した。

  岩本氏諸家

岩本兵部━━武家┳某 岩本弥兵衛 毛利家臣
        ┣家次━武辰┳武済┳武雅   岩本全八家  以下を参照
        ┃     ┃  ┗武矩   岩本多見弥家
        ┃     ┗武友      岩本多見弥家       
        ┗某 岩本長次郎 毛利家臣      
 

その跡を嫡子六之進武済が相続、のち岩本佐五右衛門と改め享保五年死去した。その跡を嫡子兵内武雅が相続、舞台番、別段廻を勤め寛延四年隠居した。その跡を武七郎(のち佐五左衛門、取次、越中畑番所番人を勤め、天明四年死去)道武━養子勇助(のち理右衛門、享和三年隠居)━村治(文化四年死去)━小田島半の二男銀治(錠口番、文化十三年死去)━小田島弥右衛門の子守右衛門(文政四年隠居)━権兵衛(新山物留番所番人、文政十一年隠居)━泰右衛門(安右衛門とも、郡山東根山奉行、馬門山奉行)━養子全八(嘉永七年相続)と継いだ。明治十年の士族明細帳には下厨川村二百七十九番屋敷に居住と散見する。その跡を大五郎━テイ━三郎━俊郎と相続、当主の多津氏は北海道に在住する。歴代の墓地は盛岡市愛宕町の恩流寺にある。

岩本家はその嫡子佐五右衛門武済の二男八郎武矩を祖とする分家と、武辰の二男安右衛門武友を祖とする分家がある。


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