岩屋 いわや

岩屋良蔵家

 明治元年支配帳に岩屋良蔵家がある。『参考諸家系図』によれば岩屋良蔵家岩谷勘右衛門義永を祖と伝える。義永は藩主重信の時に召出され、五駄二人扶持を拝領、延宝二年死去した。その跡を嫡子勘右衛門永道(宝永二年死去)━勘兵衛(のち勘太郎、享保十八年に隠居、翌十九年死去)宣安と相続。この代に岩谷を岩屋に改めた。時期は不明だが、享保二年の支配帳では既に岩屋勘兵衛で見える。その跡を嫡子嘉兵衛安路(元文三年に隠居し寛保元年死去)━三弟勘助矩がん(山編に元、寛延二年隠居)━杢之助(のち勘右衛門、取次、宝暦十二年死)━勇之助(のち勘兵衛)と継いだ。雇勘定方、別段廻を勤めた後、寛政五年江戸上屋敷用材剪出方発方用掛となり、その後台所奉行当分加を勤めた。文化元年雇勘定方勤中に蝦夷地用掛となり函館に勤番。文化十年死去した。その跡を駒吉(のち良作)が末期の養子となり相続したが文政五年以降、晩年については知らない。その後天保十二年の支配帳に良作が見える。明治四年に子孫良蔵が盛岡県に提出した先祖三代書上によれば、祖父力太は用の間物書を勤めた。父良作は雇勘定方を勤めた。自分良蔵は弘化三年に家督を相続し雇勘定方となり、明治二年東京にあって会計副補務を勤めたとしている。以上から推して駒吉(のち良作)と力太が同一人物、その子良作、その子良蔵の線が窺われる。良蔵は嘉永三年相続時には勘兵衛、その後惇之助(のち良蔵、明治元年更に良衛と改名)吉哉が継いだ。岩屋を岩谷に改め時期は不明だが明治三年三月の士族明細帳では既に岩屋良衛を岩谷良蔵に改めている。旧姓に復すとともに官名の制禁による「良衛」から前名「良蔵」への戻しと見られる。吉哉の跡を嫡子義治が相続、同十年の士族明細帳は大清水小路十一番屋敷に居住を記録している。その跡を庸介が相続、当主義治氏は盛岡市に在住する。


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