臼井 うすい

臼井左中家 191212

明治元年支配帳に臼井左中家がある。『参考諸家系図』によれば本姓を金万とする臼井仁右衛門景元を祖と伝える。景元は備後国福山(広島県)で生まれて江戸に住居。寛文三年に織田淡路守(旗本寄合二千石、実は織田藤十郎一之の誤りヵ)の推挙により、地方二百石で南部重直に召抱られた。稗貫郡太田村(花巻市)、二戸郡米沢村(二戸市)、鹿角郡小平村(秋田県鹿角市)を領し、使番、鹿角金山奉行、者頭鹿角古人頭(鹿角境奉行の古名)兼帯、花巻検地奉行を歴任した。この間、寛文九年より秋田境出入論(境界論争)があり、幕府評定で秋田と対決のためしばしば江戸に上った。延宝五年境目公事検使として幕府より使番設楽源左衛門貞政、新番組頭中山茂兵衛勝之が到来、境目検分の時にはその応接に当たった。翌六年結審。その功績により鹿角郡柴内村(秋田県鹿角市)に百石加増、高三百石となった。元禄九年上屋敷焼失の時には普請奉行を勤め、翌十年幕府へ国絵図(元禄国絵図)書上に際し作成方を勤めた。景元は嗣子がなく、稲葉美濃守正知(下総佐倉城主・十万石)の家臣で実兄金万五郎右衛門の二男左源太(のち四郎兵衛)景明を養嗣子とし、同十二年に死去した。その跡を景明(同十五年江戸で死去)━傳三郎景則(のち平右衛門、仁右衛門、何右衛門・同十一年隠居、同十三年に死去)と継いだ。廻役、別段廻役、者頭、野辺地通代官を歴任、宝暦三年日光本坊普請手伝の時、火廻り火消役を勤めた。その子仁右衛門景雄は父に先立ち死去したので、嫡孫七之丞(のち文右衛門、何右衛門)景真が祖父の家督を相続した。景雄に三男あり、長男景真が祖父の家督を嫡孫承祖した。景真の次弟直右衛門健将は謙信流兵学者として文政八年に召出され、三弟隼太は宝蔵院流鎌術の武術者として文政三年に召出されている。景真は、者頭(勤中の安永八年に下の橋懸直普請奉行を勤めた)、鹿角境奉行を歴任し寛政六年に死去した。その跡を守之助元甫(のち何右衛門、並衛)が相続、者頭、鹿角境奉行、大目付格、用人、花巻城代を歴任、文政十年死去した。嗣子がなく、楢山茂右衛門の二男順司元弥を養嗣子としたが元甫に先立ち死去。家督は元弥の子左一郎元憲(のち求馬、左仲)が嫡孫承祖した。先手鉄炮頭、中丸番子組頭、目付加、先手弓頭を勤めた。明治十年の士族明細帳によれば、鷹匠小路七番屋敷に住居と見える。歴代の墓地は盛岡市北山の法華寺にある。高三百石の采地は、百五十二石余を毛馬内通柴内村(秋田県鹿角市)に、十三石余を同通乳牛村(秋田県鹿角市)に、二十四石余を同通小平村(秋田県鹿角市)に、五十一石余を福岡通米沢村(二戸市)に、五十九石余を二子通太田村(花巻市)に有していた。

 諸士リスト(う?お)

盛岡藩士の家系メインリスト


一覧にもどる