内田 うちだ

内田傳之助家 200218

 明治元年の支配帳に内田傳之助家がある。『参考諸家系図』によれば内田清兵衛親高を祖と伝えている。親高は近江(滋賀県)で生まれ、承応三年馬術の達人として馬責に召抱られ、四駄二人扶持(高二十石)を食禄、その後減禄となり三石六斗となった。親高に二男あり、嫡子清左衛門規明はその家督を相続。二男武兵衛晴規は寛文十二年馬責に召出され、別に三人扶持を禄した。規明はその後同七年に高二十四石四斗を加増され、八駄二人扶持(高二十八石)となり、延宝二年更に向中野通小荒瀬(盛岡市)に足高野竿新田を受け、天和二年開田の精検地により二十二石を加増され、高五十石となった。この時士籍に列した。貞享元年小荒瀬を飯岡新田村(盛岡市)に知行替され、その跡を嫡子清兵衛重規が相続。元禄五年死去した。その跡を嫡子覚之丞規永(のち清左衛門、清兵衛、伊五右衛門・享保十二年死去)━━福田弥五右衛門祐通の二男覚之丞長規(のち茂五右衛門、歩行火の廻り、別段廻り、本丸取次、新山物留番所番人、安俵高木通代官と歴任。明和六年に死去)━━喜藤(中屋敷、新丸裏門番、のち、天明二、三年には花輪蔵奉行)と継いだ。その後寛政末年頃から平六が散見する。喜藤の嗣子であろうか。大奥用聞、川除普請奉行などを勤めたことが知られている。嘉永二年二人扶持を加増され、地方六十二石、内現米十四駄二人扶持となり同年死去した。その跡を啓八(翌四年死去)━━傳之助正路(のち平陸)と相続した。明治元年戊辰戦争の時、嫡子傳次郎政明が発機隊隊士として野辺地口で戦死。享年十七歳であった。明治六年正路の跡を正義(初め常弥)が相続、同十一年の士族明細帳によれば、仙北町村(盛岡市)百番屋敷に住居と見える。その跡を正通━━正太郎と相続、当主ハマ子氏は北上市に在住する。歴代の墓は盛岡市名須川町の徳玄寺にある。

 諸士リスト(う?お)

盛岡藩士の家系メインリスト


一覧にもどる