内野 うちの

内野藤橘家

 明治元年の支配帳に内野藤橘家がある。『参考諸家系図』によれば内野嘉左衛門直政を祖と伝えている。 直政は京都に生まれ、のち相模(神奈川県)小田原で北条氏に仕えたが天正十八年北条氏没落により浪人となった。のち徳川家に仕え、永井右近預かり与力(二百五十石)となる。寛政重修諸家譜によれば、右近は幕臣永井右近大夫直勝。一万二千石を領し、慶長十年与力同心を預けられ、のち書院番頭となったと見える。直政は慶長中、更に徳川家を出て南部利直に召抱られ、地方二百五十石、うち現米五十石を知行。「正保三丙戌歳山城守重直公御代支配帳」には内野加左衛門、二百五十石、「明暦三年支配帳」には内野嘉左衛門、二百五十石内五十石御蔵米と見える。承応元年死去した。嗣子嘉兵衛豊政は時に七歳。幼少により、父の遺領は姉(実は高屋才六則之女)の婿黒沢傳兵衛定博に宛行われ、その家に養育せられ、成長の後、命によって漆戸甚左衛門茂慶の家士となった。正徳三年死去した。その長子伊五右衛門は大萱生長左衛門の家士で一生を終えた。二男数右衛門庸貞は、正徳二年使者給仕に召出され、二人扶持四季施九貫三百文を領した。享保十四年士籍に列し、還俗して忠左衛門と改め、盛岡東根山奉行、用人所物書を勤め寛保二年に死去した。庸貞の跡は数右衛門庸方の代で断絶した。伊五右衛門の子伊三太武朝は、延享二年叔父内野数右衛門庸貞の弟分として徒に召出され、六駄二人扶持領し、のち死去した。その子伊三太(のち伊兵衛)は明和九年父の番代、安永四年与力となり、天明三年士籍に列した。寛政十二年の支配帳に伊三太がある。伊三太(のち伊兵衛)の子であろうか。その後、文政三年の支配帳に嘉左衛門が見える。伊三太との関係は定かでない。盛岡新蔵奉行を勤めている。同七年の支配帳にその子禎司(のち覚蔵、伊三太)がある。禎司は既にその前年から見え、のち三戸蔵奉行を勤めた。文久元年その子藤橘武政が家督を相続、慶応元年物価高騰を理由に本高同様の手当米六石が支給され、手当米ともで三駄四人扶持(三十石)を禄した。目付所物書を勤めた。明治十一年の士族明細帳によれば、当時加賀野六番屋敷に住居と見える。その跡を娘クニが相続して家名は絶え、旧盛岡藩士桑田の権利継承者(他姓となった血脈)は盛岡に在住する。歴代の墓地は盛岡市北山の東禅寺にある。

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