内堀 うちぼり

内堀勘平家

 明治元年の支配帳に内堀勘平家がある。『参考諸家系図』によれば、内堀伊豆頼式の二男内堀浅右衛門(のち勘平)幸政を祖と伝えている。幸政が召出された時期は不明であるが、正保三年の支配帳には既に「五十石・内堀浅右衛門」が見える。徒頭を勤めた。寛文中に隠居、同十五年隠居料として現米二十五駄(高五十石)を禄し側詰を勤めた。宗円と号し、和歌を能くして貞享五年死去した。その跡を嫡子勘平(のち善左衛門)慶伴が相続、正徳五年死去した。その跡を兵五郎(のち善左衛門)冨慶が相続、本丸取次、江戸下屋敷鍵番を勤め、寛保五年江戸で死去した。その跡を嫡子虎之助(のち善左衛門、善兵衛)忠慶が相続した。歩行火廻り、石間屋敷取次、江戸下屋敷取次、同中屋敷取次等を勤めた。天明三年嫡子善右衛門冨弥が番代となったが、寛政十二年の支配帳では、既に代替わりをして善右衛門が見える。その後文政三年の支配帳に、その子だろうか民司があり、同七年の支配帳では祐司に変わる。後年明治四年に盛岡県へ提出した書上げによれば、当主勘平は、「祖父勘平、父祐司」と記述している。祖父勘平は善右衛門と同人。父祐司は民司と同人。諸士給人由緒書上・本家内堀家の書上によれば、「末家内堀祐司は文政十年(本家内堀)大蔵頼愛の三男繁松を養嗣子として迎えた」としている。のちの勘平と見られる。その後文政十年本家より内分として八幡通新堀村(石鳥谷町)に五十石を受け、百石の軍役を勤めた。天保十年その内分を分知された。毛馬内蔵奉行、代官を勤めた。その跡を勘平(嘉永五年相続)━熊蔵頼清(明治四年相続、同十一年の士族明細帳によれば、頼清は川目村(盛岡市)五十二番屋敷に住居)━頼人と相続。当主の頼尾氏は盛岡市に在住する。歴代の墓地は盛岡市北山の聖寿寺にある。高百石のうち地方五十石の采地は八幡通新堀村(石鳥谷町)にあつた。

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