梅内 うめない

梅内繁右衛門家 200320

 明治元年の支配帳に梅内繁右衛門家がある。『参考諸家系図』によれば、 梅内左助祐弘を祖と伝えている。祐弘は三戸に浪人で死去したが、長男嘉左衛門祐吉は藩主信恩の時召出されて御用の間物書となり、四駄二人扶持を食禄。享保六年死去した。時に祐吉には未だ嗣子がなく、二弟の佐兵衛(のち佐次右衛門)祐好が順相続。享保中三戸郡梅内村(青森県三戸町)に足高野竿新田二十三石を願い出て新田開発に当たり、元文五年精検地の結果改有高三石五合を加増された。宝暦三年に隠居。明和九年死去した。その後、先代祐吉に実子万次郎祐隆が誕生。享保八年別に徒に召出され、六駄二人扶持を食禄した。一方、祐好は宝暦三年に隠居。その跡は嫡子左平太祐高(のち十左衛門)が相続。同七年の支配帳では「四駄二人扶持・梅内左平太」とある。加増された地方三石五合が見えない理由は定かでない。取次、閉伊田番所番人、江戸下屋敷賄役を勤めて寛政八年に隠居。享和三年に死去した。その跡を嫡子左次右衛門(のち十助)が相続。寛政十三年の支配帳でも「四駄二人扶持・梅内十助」とあり、当代にても地方の有無については触れていない。文化八年に隠居。同十二年に死去した。その跡を十助祐房(のち十左衛門、天保八年死去)━市太郎(のち十左衛門、同十年隠居)━三弟十助祐慶(のち繁左衛門、繁人)と相続。奥錠口番となった。慶応元年物価高騰を理由に本高同様の手当米十石が支給され、手当米ともで三駄四人扶持(高三十石)の実収となった。祐慶は明治十一年の士族明細帳によれば、加賀野村(盛岡市)十番屋敷に住居と見える。

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