上関 わせき

上関末治家

 明治元年の支配帳に上関末治家がある。『参考諸家系図』によれば、工藤小次郎行光の後胤上関源右衛門光成を祖と伝えている。代々厨川氏に属して岩手郡上関村(八幡平市)に住居し在名により氏を称したと伝える。


工藤小次郎行光末孫

上関源右衛門光成 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓

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┣康光━━━┳光政━━━━光親━━━━光頼━━━━━━━━━━━━━━━┓

┃ 源兵衛 ┃ 作兵衛   作右衛門  作之丞             ┃

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┃     ┃     ┣光纂       明治元年支配帳  上関末治家

┃     ┃     ┃ 作兵衛

┃     ┃     ┗某 作内

┃     ┃                      御鳥討に被召抱

┃     ┗正方━━━━━┳正久 ━━━━正武 郡山御鳥見に被召抱

┃        清右衛門   ┃ 清右衛門  清四郎 

┗正金             ┗光済━━━━┳光忠(別家)   上関文治家

  安左衛門          吉右衛門 ┃ 善右衛門

    鹿角御境御用           ┗光綏(家督) 後・断絶

      子孫代々御目見得 御境古人    甚六

光成の時、天正中南部信直に帰降、慶長八年死去した。その跡を嫡子源兵衛康光が相続。故あり収禄、浪人となり寛永二年死去した。その長男作兵衛光政は、父収禄の後石井伊賀守の扶助を得、のち寛永中石井氏の取りなしで召出され十五駄二人扶持(高四十二石)を宛行われた。藩主利直夫人蒲生氏附となり、定府となる。寛文二年盛岡に移住、延宝五年死去した。その跡を嫡子作兵衛(のち作右衛門)光親が相続。天和中持弓同心三上弥太郎の乱心の時、疵を被り手負いとなり、不念の始末の罪を以て収禄せられ浪人となった。元禄四年聖寿寺大道の願により更に召出され、二人扶持(高十二石)を宛行われ享保四年死去した。その跡を作之丞光頼が相続、郡山西根山奉行となり、宝暦二年隠居、明和三年死去した。その跡を孫三郎(のち孫左衛門、作兵衛)光纂が相続、宝暦三年の日光本坊修復普請手伝の時、現地に赴き、大工方を勤め、明和三年江戸大工奉行を勤中に七駄加増、七駄二人扶持(高二十六石)となった。大工奉行御側御用達兼帯、毛馬内蔵奉行、鹿角御手山奉行等を歴任して明和七年死去した。その跡を友右衛門が相続、雇勘定方となる。寛政十二年の支配帳には友右衛門が見え、その後嫡子忠平光定が相続。文政三年の支配帳には作兵衛の名で見える。武田彦右衛門に師事して柳生心眼流柔術師範となり、天保四年に手当米(師範中)として一ヶ年三駄を支給された。弘化四年隠居。流儀は石亀進に伝えている。この時、門弟の指導を賞せられ、手当米三駄を軍役高に換えて加増となり、十駄二人扶持(高三十二石)となり、同年死去した。その跡を定之助(普請奉行、安政四年死去)━左右太(のち作兵衛)━末治光徳(慶応元年に養嗣子)と継いだ。同年十二石を扶持方に色替して四駄四人扶持(高三十二石)となった。明治十一年の士族明細帳によれば、大沢河原七番屋敷に住居と見える。その跡を光蔵━光敏と相続した。
菩提寺 東禅寺

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