江苅内 えかりない

江苅内貢家 200327

 明治元年の支配帳に江苅内貢家がある。『参考諸家系図』によれば閉伊十郎行光の後胤江苅内小左衛門久賀を祖と伝える。先祖より代々岩手郡江苅内村(岩手町)に住居し、在名により氏としたという。久賀の時、寛文三年志和郡伝法寺村、白沢村(以上矢巾町)、二戸郡岩清水村(一戸町)に与力新田十七石を宛行われ与力となった。延宝八年死去した。「参考諸家系図」は「正史云、寛文九年八月江苅内小左衛門へ二人扶持を賜ふと、蓋し此の人ヵ」とし、「身帯並御加増分地被召出」には寛文九年八月に持弓同心三十人任用のことがあり、その一人に江苅内小左衛門が見える。久賀同人であろうか。久賀の家督はその子政右衛門久冨が相続、久冨はのち世子行信の先供を勤め、更に年功を以て士班に列し、駕籠頭、本丸末賄役、配膳、側役を歴任した。享保十五年谷屋敷普請奉行を勤め、同十六年その賞として二駄加増、高二十一石となり同十九年死去した。久冨に長男左門林久及び次男政右衛門久周の二男があった。家督は次男久周が相続、曽孫五右衛門の時に、寛政元年罪を蒙り断絶した。長男林久は、正徳五年別に召出され能小役、小姓禿を勤めて擬扶持六両二歩二人扶持を食禄、のち享保二年本禄とされた。同十二年足高新田十石を加増、更に宝暦二年二駄を加増、高六十四石五斗となった。同十二年江戸で死去。麻布浄専寺に葬られた。その跡を嫡子庄太夫(のち類右衛門)が相続、天明四年に隠居して文化十年に死去した。その跡を坂牛金左衛門祐佳の三男軍蔵(のち類右衛門)矩久が養嗣子となり相続、文化二年死去した。その跡を星川茂兵衛吉寛の四男宇源太久任(のち左助、盛、類右衛門、寛爾)が養嗣子となり相続。天保五年勘定奉行勤中に寛爾の名を拝領した。嘉永五年死去した。その跡を盛が相続、慶応元年六石を扶持方に色替し、金方六十四石五斗、内二駄三人扶持、十石野竿高となった。明治三年に貢の嫡子千万蔵が相続した。文久三年の支配帳には盛があり、慶応元年の支配帳は貢で見える。盛と貢は同人であろう。明治七年貢が改名して永夢で再当住となった。同十一年の士族明細帳では加賀野村百三十五番屋敷に住居と見える。歴代の墓地は盛岡市名須川町の東顕寺にある。

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